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頼朝の窮地を救った在地の有力豪族「土肥氏」

北条氏を巡る「氏族」たち⑬


4月24日(日)放送の『鎌倉殿の13人』第16回「伝説の幕開け」では、木曽義仲(青木崇高)を討ち果たした源頼朝(大泉洋)が、源氏の棟梁の座を確固たるものにした。そして、悲願であった平家討伐がいよいよ本格的に始まろうとしていた。


 

源平合戦最大の攻防が始まる

神奈川県湯河原町の湯河原駅前に建つ土肥実平の像。隣は実平の妻。実平の妻は、石橋山での敗戦の後、尼や農民に変装して敵の目を欺き、頼朝が潜伏していた洞窟に食糧を届けたとの逸話が残る。

 上総介広常(佐藤浩市)の処刑を目の当たりにした御家人たちは、頼朝の非情さに怯えていた。そんななか、北条義時(小栗旬)の父である時政(坂東彌十郎)が鎌倉に戻ってくる。時政は、いつ誰に謀反の疑いをかけられるか分からないと判断し、戻ってきたのだという。

 

 御家人たちを曲がりなりにもまとめ上げた頼朝のもとに、後白河法皇(西田敏行)の院宣が届けられる。内容は頼朝の追討だ。背後に法皇を手中におさめていた木曽義仲の存在があると看破した頼朝は法皇救出のため、義仲成敗に出陣するよう御家人たちに命令。源範頼(のりより/迫田孝也)を総大将とする本軍を組織し、先発させている源義経(菅田将暉)と合流させることにした。

 

 1184(寿永3)年、範頼軍と義経軍が合流。さっそく軍議を催している最中に、義仲から義経に文が届けられる。ともに平家を倒したいという中身だ。義仲はまだ、頼朝勢とともに平家を討つという盟約を信じているということになる。

 

 義経は文を届けに来た使者の首をはねさせ、義仲を挑発することにした。武士の作法に反する、と梶原景時(中村獅童)は反対するが、次々と明かされる義仲討伐のための義経の計略は、いずれも練りに練られたもの。景時は返す言葉もなかった。

 

 義仲は京を捨て、北陸に退却。入れ替わりに義経らが入京する。土肥実平(どひさねひら/阿南健治)を伴って法皇に拝謁した義経は、このまま義仲を討ち、その後は休むことなく西へ向かって平家を滅ぼすと約束した。法皇は満足そうに義経の言葉を聞いていた。

 

 退却した義仲を範頼軍が近江で迎え撃つことで討伐に成功した義経らは、すぐさま福原に布陣する平家の追討に作戦を移行。さっそく軍議で景時が軍奉行としての考えを披露したが、ことごとく義経に否定される。それどころか、義経は奇抜な策を次々に出して景時らを圧倒した。

 

 さらに義経は、偽りの和議を平家側に指図するよう法皇に手紙を出すことを思いつく。すなわち、平家が油断したところを叩くというだまし討ちの策だ。法皇はおもしろがって義経の策に乗る。

 

 同年27日の早朝。こうして源平合戦最大の攻防といわれる一ノ谷の戦いが始まった。戦場で弓を取り、刀を取って軍神のごとき活躍を見せる義経の姿を見て、景時は隣にいる義時につぶやいた。

 

「八幡大菩薩の化身じゃ」

 

荒ぶる武士たちの仲裁役を務める

 

「土肥氏」は、相模国足下郡土肥郷(神奈川県足柄下郡湯河原町・真鶴町)を本領とした一族。地名が姓の由来とされている。

 

 桓武天皇の皇子である葛原(かずらわら)親王の孫・高望(たかもち)王を始祖とする系統を桓武平氏という。高望王は平朝臣の姓をうけた後、関東に土着したといわれており、その子孫たちは下総国(現在の千葉県北部や茨城県南西部、埼玉県東部、東京都東部)や常陸国(現在の茨城県)、武蔵国(現在の東京都と埼玉県、神奈川県の北東部)などに勢力を確立していく。彼らはやがて坂東平氏と称される有力者として君臨した。

 

 土肥氏もそのうちの一流と考えられている。高望王の五男・平良文の子孫である中村宗平(むねひら)が、土肥実平の父だ。

 

 中村氏は相模国余綾郡中村荘(神奈川県小田原市・足柄上郡中井町)を本拠とした一族。中村党と称され、平安時代末期には相模国の南西部に勢力を伸ばしつつあった、当地の有力武士団のひとつだった。

 

 実平は宗平の次男として、現在の湯河原から真鶴半島を含む土肥郷に進出し、土肥姓を名乗るようになったようだ。

 

 相模国大住郡土屋郷(神奈川県平塚市土屋)を本拠とした弟の土屋宗遠(むねとお)、父の宗平とともに、実平は旗揚げ当初から頼朝に付き従っている。挙兵当初からの家人ということもあり、頼朝からの信頼も厚かったようだ。

 

 実平は、1180(治承4)年に石橋山の戦いで大庭景親の軍勢に敗れた際、頼朝の窮地を救っている。敗走し、わずかとなった手勢をさらに分散することを実平は提案した。さらに少人数となることで頼朝の身の危険を案じる家人たちに対し、「今の別離こそ、後の大幸なり」と説得。知り尽くした自身の所領のあらゆる抜け道を通って、頼朝を安全な場所へ誘導したという(『吾妻鏡』)。

 

 頼朝はこの後、安房国(現在の千葉県南部)の房総半島に脱出しているが、この時に船の手配などを行ったのも実平だった。

 

 実平の生没年は不詳だが、源平合戦に従軍し、奥州藤原氏討伐にも参加していたことが記録として残されている。

 

 ドラマの中で実平は、諍いを始める御家人たちに「仲良く、仲良く」と仲裁する場面が描かれることがあるが、源平合戦の最中に、衝突する源義経と梶原景時をいさめる役を買って出たのが実平といわれている。

 

 実平の子である遠平は、後に幕府より安芸国沼田本荘(現在の広島県三原市)を与えられ、小早川氏を名乗った。小早川氏は、戦国時代に毛利元就の三男である隆景が継いで、吉川氏とともに毛利両川の一翼として安芸国において地歩を固めたことが知られている。

 

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過去記事

小野 雅彦おの まさひこ

秋田県出身。戦国時代や幕末など、日本史にまつわる記事を中心に雑誌やムックなどで執筆。近著に『「最弱」徳川家臣団の天下取り』(エムディエヌコーポレーション/矢部健太郎監修/2023)、執筆協力『歴史人物名鑑 徳川家康と最強の家臣団』(東京ニュース通信社/2022)などがある。

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