史上初の武家政権を打ち立てた「平氏」
北条氏を巡る「氏族」たち⑮
5月8日(日)放送の『鎌倉殿の13人』第18回「壇ノ浦で舞った男」では、源頼朝(大泉洋)を頂点とする源氏方が平氏に完全勝利。今回の放送では源平合戦の最終戦となった壇ノ浦の戦いでの源義経(菅田将暉)の活躍ぶりが鮮やかに描かれた。そして、ついに源氏の悲願であった平家滅亡を実現。だが、喜びに沸く鎌倉では、平家討伐の最大の功労者である義経の身辺に不穏な空気が漂っていた。
源氏の悲願だった平家滅亡がついに成就する

壇ノ浦の古戦場を一望できる、山口県下関市の「みもすそ川公園」。平知盛の像が立つ。知盛は清盛の四男で、重し代わりに鎧を抱いて入水したという。この像の向かいには源義経の像が立っている。
源義経は、梶原景時(中村獅童)や畠山重忠(中川大志)らの反対を押し切る形で、次々に奇策を講じて一の谷の戦い、屋島の戦いと、鬼神のごとき戦いを続けていた。相次ぐ敗戦の末、逃げ道を断たれた平家は壇ノ浦に追い詰められた。
1185(元暦2)年3月24日。最後の正念場とばかりに、平家は洋上で決死の抵抗を試みていた。苦戦を強いられた義経は、船のこぎ手を狙うという戦の禁じ手を犯して最終決戦に持ち込む。形勢は逆転し、源氏方が一気に優勢となった。観念した平家一門は次々に入水。三種の神器は海に沈み、安徳天皇も海の藻屑となった。
あまりの強さを見せる義経に対して自制を求めていた源頼朝(大泉洋)だったが、悲願の平家滅亡を成し遂げたことを妻の北条政子(小池栄子)と涙を流して喜んだ。
戦後、一足先に鎌倉に戻った景時は、戦場での義経の一挙手一投足を頼朝に報告。戦には強いものの、人の情けをないがしろにする。景時の報告を聞いた頼朝は、一抹の不安を覚えていた。
平家は滅んだものの、頼朝は手放しで喜んではいない。幼き帝と三種の神器のうち宝剣を失ったことは明らかな失敗だ。京で評判の高まる義経に釘を刺す必要がある。頼朝は義経に文を出した。
叱責された義経は、一刻も早く鎌倉に戻って釈明するため、後白河法皇(西田敏行)に、検非違使の返上を進言。京の警護を務める役割だったため、勝手に京を離れるわけにはいかなかったからだ。
義経を手元に置いておきたい法皇は苦肉の策として、壇ノ浦の戦いで捕縛した平家の棟梁である平宗盛(小泉孝太郎)を鎌倉に連行する役目を言い渡した。必ず京に戻ってくることを前提とした処置だった。
義経は宗盛を連れて鎌倉に向かったものの、手前にある腰越で留め置かれ、頼朝との面会はかなわなかった。景時の告発もあり、頼朝は義経が自身の後継者と勝手に勘違いすることを殊のほか警戒していたのである。
不満を抱えつつも義経は頼朝の判断を尊重。その上で、「この先は法皇様第一にお仕えする」と決意した。敵方だった宗盛への温情や、かつて恩を受けた腰越の住民に対する返礼など、その温かな人柄に触れた北条義時(小栗旬)は、複雑な面持ちで義経を見つめていた。
盛者必衰の理を体現した平氏一族
「平氏」は、皇族が臣下の籍に下る際に下賜された姓のひとつ。大きく4つの系統に分かれる。すなわち桓武平氏、仁明平氏、文徳平氏、光孝平氏だ。
なかでも最も広く世に知られたのが桓武平氏である。桓武平氏は、桓武天皇の子や孫が賜ったもので、特に、葛原親王の子孫の系統が最も繁栄した。
葛原親王の系統は大きく分けて長男の高棟王と、孫の高望王を始祖とする2つがある。
高棟王の系統は、その子である平惟範や孫の平時望などをはじめ、貴族として栄えた。
一方、高望王は上総介に任命されたことから、下総国(現在の千葉県北部、茨城県南西部、埼玉県東辺、東京都東辺)、常陸国(現在の茨城県)、武蔵国(現在の東京都と埼玉県のほぼ全域、神奈川県の北東部)などの諸国に一族が根を張った。そのなかから坂東平氏と称される系統が誕生している。
坂東平氏のうち、伊勢国(現在の三重県北中部)方面に進出した一流が伊勢平氏だ。伊勢平氏の始祖は、平貞盛(あるいはその子である維衡との説もある)とされている。彼らは伊勢を拠点として京都にも活動の足がかりを置く一方、伊賀国(現在の三重県西部)にも勢力を伸ばしていた。
そんな伊勢平氏の流れを汲む平正盛が中央政界に進出を果たしたのは、1097(正徳元)年頃。所領を寄進するなどして白河上皇への接近を図ったのである。政治家としてはもとより、1108(天仁元)年には源義親を追討して功を立て、武士としても名を馳せている。
正盛の子である平忠盛は、武力面での支援という形で白河法皇や鳥羽上皇との関係を構築した上、宋(現在の中国)との貿易を盛んにして巨万の富を得るなど、その地位を盤石なものにした。
こうした祖父・父の遺産を受け継いだのが、平清盛だ。保元の乱(1156年)や平治の乱(1159年)で武士としての地位を躍進させ、政治家としては後白河法皇と連携することで朝廷内の実権を掌握するまでに至った。
清盛は、高棟王の子孫である時子と結婚。貴族として発展した平氏と、清盛ら武家として地位を高めた平氏とが、この結婚で一体化することとなる。
今日、一般的に「平家」と呼ばれるのは、この正盛、忠盛、清盛と続く伊勢平氏の系統のこととされている。
清盛は武家としては初となる太政大臣にまで上り詰めた。その後、出家・引退はしたものの、一族の総帥として権力は握り続けている。
巨大な軍事力と、豊富な資金力。さらには娘たちを天皇や朝廷の有力者に嫁がせるといった婚姻政策で、政界での清盛の存在は揺るぎないものとなった。
かつては源頼朝の開いた鎌倉幕府が史上初の武家政権といわれていたが、現在ではその影響力の大きさから清盛の掌握した政権が最初の武家政権であるとする見方が一般的になってきている。
いずれにせよ、清盛の才覚により平家は栄華を極めた。しかし、清盛の死後、一族は各地で勃発する反平家運動を抑えることができず、壇ノ浦の戦いで源義経率いる軍勢に敗れて滅亡した。
ただし、忠盛の五男で、清盛の異母弟である平頼盛が一族で唯一生き延びている。頼盛は一族のなかでも朝廷との関係が良好で、清盛と後白河法皇との対立が表面化した際には微妙な立場となっていた。
挙兵した頼朝勢に押され、一族が西国へ落ち延びた後、主流は滅亡することとなったが、頼盛は途中で離脱し、京都に舞い戻っている。その際に頼朝の傘下に降った。頼盛は平家滅亡後の1185(文治元)年に出家。翌年に病死している。
頼盛の子により系譜は続いた。なかでも五男の平保業は河内守に任じられるなど鎌倉幕府の御家人として活動している。