×
日本史
世界史
連載
ニュース
エンタメ
誌面連動企画

義朝・頼朝・頼家と源氏3代に仕えた「岡崎氏」

北条氏を巡る「氏族」たち⑭


5月1日(日)放送の『鎌倉殿の13人』第17回「助命と宿命」では、木曽義仲(青木崇高)の遺児である義高(市川染五郎)の処遇をめぐり、さまざまな思惑が鎌倉中を駆け巡った。御家人である北条義時(小栗旬)は、源頼朝(大泉洋)から与えられた試練に立ち向かうこととなる。


 

鎌倉を揺るがした義高の抹殺命令

神奈川県小田原市にある佐奈田霊社。石橋山の戦いで先陣を切って討死した、義実の息子である義忠を祀る神社で、近隣にある「ねじり畑」は、戦場で義忠が敵将を組み伏せた場所と伝わる。

 木曽義仲を討ち果たし、一の谷の戦いで平家軍に勝利した源義経(菅田将暉)が、後白河法皇(西田敏行)に戦勝報告をしていた頃、源頼朝は自身が抱える2つの課題について北条義時らと話し合っていた。1つは武田信義(八嶋智人)に源氏の棟梁が頼朝であることを認めさせること。もう1つは、討った義仲の嫡男である源義高を消すことだ。

 

 頼朝は義高抹殺を義時に命令。御所内でも穏健派の義時に指示を下した頼朝の狙いは、人の世を治めるには鬼にならなければならないということを理解してもらうためだった。

 

 娘の婚約者として義高を高く評価していた北条政子(小池栄子)は、義高の処刑に猛反発。夫の頼朝の決定が覆らないことを悟ると、義高を伊豆山権現に匿うことを画策した。

 

 そんななか、武田信義が嫡男の一条忠頼(前原滉)とともに鎌倉を訪れる。表向きは義仲討伐の戦勝祝いだが、信義は頼朝に対する不満があった。忠頼を戦場に派遣したのに、法皇から何の恩賞も与えられていなかったのである。その背景には頼朝の妨害があると見ていた。それを見透かしている頼朝は、のらりくらりと信義の追及をかわした。

 

 何の収穫も得られぬまま、その場を後にする信義だったが、義高が鎌倉の御所内のどこかに幽閉されていることを忠頼から聞かされると表情が一変。義高を武田方に引き込み、頼朝潰しに利用することを思いつく。

 

 しかし、義高はこの誘いを拒否。義高は父から送られた最後の手紙を読み、父を殺した頼朝への憎悪を抑えることにしていた。敵対するのではなく、源氏が平家を滅ぼす悲願を成就するのを最後まで見届ける。そんな、父との約束を果たそうとしていたのだった。

 

 義高と信義らの接触を耳にすると、父を殺された武士の強い憎しみを誰よりも知る頼朝は、警戒を強める。直後、義高が脱走した知らせが届いた。政子らの密かな手引きによるものだ。頼朝はすぐさま追手を差し向けるよう指示。発見次第、殺すよう付け加えた。

 

 義高の殺害に御家人たちの間でも躊躇の声があがる。そんな義高捜索に鎌倉が騒然となっていた頃、義高の婚約者だった大姫(落井実結子)は、頼朝に直接、義高の助命を嘆願。まだ幼い我が娘が、小さな手で小刀を握りしめ、自らの命を賭けてまで助命を願い出た様子に、殺気立っていた頼朝の心は溶解する。頼朝は、命までは取らないと大姫に約束をした。

 

 しかし、命令の変更を義時が配下に指示した途端、義高の首が届けられる。討ったのは藤内光澄(長尾卓磨)。出世にはやった勇み足であった。政子は激怒してその場を立ち去った。

 

 義高をそそのかした罪で一条忠頼を、そして義高を殺して政子を怒らせたことで藤内光澄を、義時は処刑した。頼朝の命に従ったものだ。

 

 嫡男を殺された信義は、今後、頼朝に歯向かわない旨の起請文を提出。政子は自身の感情的な言葉で人一人の命が奪われたことに激しく動揺する。義時は自身の姉でもある政子に「我らはもう、かつての我らではない」と、御台所(将軍の妻)として自覚するよう促した。それは取りも直さず、義時自身への言葉でもあった。

 

 義時は、我が子を胸に抱きながら、己の所業に涙した。

 

慈悲深い武士の物悲しい末路

 

 源義経による平家討伐に従軍している岡崎義実(よしざね)は、三浦義継の四男として生まれた。

 

 義継には、義実のほかに三浦義明(よしあき)という子どももいる。義明は源頼朝挙兵の際に命を落とした三浦氏の当主で、現在、ドラマで描かれている頃の三浦氏は、すでに子の義澄に代替わりしている。

 

つまり、義実は三浦一族の一人だ。

 

 そんな義実が本拠としたのは、相模国大住郡岡崎(神奈川県平塚市)。血縁関係にあるにもかかわらず、三浦氏の本領とする三浦半島から離れた場所にある。

 

 この付近は当時、平家方である大庭氏や梶原氏の勢力圏にほど近く、なぜ義実がこの辺りを拠点としたのか、経緯はよく分からない。

 

 義実は中村宗平(むねひら)の娘を妻としている。宗平は土肥実平の父で、中村党と称される武士団を率いていた。

 

中村氏の本拠は相模国余綾郡中村荘(神奈川県小田原市・足柄上郡中井町)で、義実が拠点とした岡崎は中村氏の勢力範囲の東に位置する。息子の一人である義清が中村氏の一族である土屋宗遠の養子になるなど、義実は中村氏との結びつきが強い。このつながりが、義実の本拠の位置関係と何らかの関わりがあると推測される。

 

 頼朝が挙兵した1180(治承4)年は、義実のもう一人の子である義忠がすでに独立し、佐奈田氏(真田とする説も)を名乗っていた。

 

 義忠が本拠としたのは相模国大住郡真田(神奈川県平塚市)。義実の居館から大根川に沿って上流にさかのぼったところにあった。

 

 義実は、義忠とともに石橋山の戦いに参加している。義忠は先陣を務めたが、大庭方の長尾定景に討たれて戦死した。

 

 それからまもなくして、頼朝が鎌倉に拠点を据えた頃のこと。義忠を討った定景が頼朝に降伏してきた。定景と義忠の因縁を知っていた頼朝は、その身柄を義実に渡した。「好きなようにせよ」とでも言ったのだろう。

 

 しかし、義実は定景に手を下すことができなかった。それどころか、囚人となった定景が毎日熱心に法華経を唱える様子を見て、息子の仇という憎しみの心が次第に薄らいでいき、ついに許す気になったという。法華経を信仰していた頼朝は義実の気持ちに共感して、その決断を支持したという(『吾妻鏡』)。

 

 義実の優しい人柄を伝える逸話はもうひとつある。

 

 義実は頼朝の父である源義朝に従軍して平治の乱(1159年)に出陣したと見られている。その義朝の死後、彼が本拠としていた鎌倉の亀ヶ谷に堂宇を建てて菩提を弔っていたという。この逸話も、義実の人柄をあらわすものだろう。

 

 こうした優しさが、彼の一生をどう左右したのか。晩年には、幕府からの恩賞が少ないことを不満に感じていたようだ。特に重要な職に就くことのないまま出家しているのは、彼の不遇な人生を象徴しているように見える。出家の表向きの理由は「老齢につき」というもの。この時すでに義実は齢80を超えていた。

 

 最晩年である1200(正治2)年3月には北条政子のもとを訪ねて、自らの不遇について告白している。頼朝が亡くなった後のことだ。いわく、老いたる身にありながら、養う者すらない、窮乏の極みにある、というもの。それを受け、政子が時の将軍である頼家に口添えをしたようだが、それから3か月後に義実は死去している。

 

 養子として土屋氏に入った義実の実子である義清も、義実の死の数年後に幕府への謀反に加担して討死している。謀反という挙に出たことは、義清もまた、幕府に対して何かしらの不満を感じていたということになる。

 

 旗揚げから粉骨砕身して頼朝に付き従ってきたにしては、彼ら岡崎氏一族の末路は物悲しさを感じさせる。

 

KEYWORDS:

過去記事

小野 雅彦おの まさひこ

秋田県出身。戦国時代や幕末など、日本史にまつわる記事を中心に雑誌やムックなどで執筆。近著に『「最弱」徳川家臣団の天下取り』(エムディエヌコーポレーション/矢部健太郎監修/2023)、執筆協力『歴史人物名鑑 徳川家康と最強の家臣団』(東京ニュース通信社/2022)などがある。

最新号案内

歴史人2023年6月号

鬼と呪術の日本史

古くは神話の時代から江戸時代まで、日本の歴史には鬼が幾度となく現れてきた――跳梁跋扈する鬼と、鬼狩りの歴史がこの一冊でまるわかり!日本の歴史文献に残る「鬼」から、その姿や畏怖の対象に迫る!様々な神話や伝承に描かれた鬼の歴史を紐解きます。また、第2特集では「呪術」の歴史についても特集します。科学の発達していない古代において、呪術は生活や政治と密接な関係があり、誰がどのように行っていたのか、徹底解説します。そして、第3特集では、日本美術史に一族の名を刻み続けた狩野家の系譜と作品に迫ります!