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中央の権力と互角に渡り合った「奥州藤原氏」

北条氏を巡る「氏族」たち⑰


5月22日(日)放送の『鎌倉殿の13人』第20回「帰ってきた義経」では、奥州に落ち延びた源義経(菅田将暉)の様子が描かれた。兄の源頼朝(大泉洋)は、弟に対する複雑な心情をひた隠しにしながら、北条義時(小栗旬)に非情な命令を下した。


平家を滅ぼした天才が奥州で滅ぼされる

岩手県平泉町に建つ中尊寺金色堂。もともとは敵味方にかかわらず、戦で命を落とした者たちへの供養のために建立されたという。争いのない平和な国づくりを誓い、京から技術者を呼び寄せるなど、清衡の並々ならぬ思いが込められている。

 

 失踪した源義経が奥州・平泉(現・岩手県平泉町)に現れたとの情報が鎌倉に届いた。平泉を拠点に広大な奥州を治める藤原秀衡(ふじわらのひでひら/田中泯)と義経が手を組めば、源頼朝にとって強大な敵となる。頼朝は警戒を強めた。

 

 ところが、まもなくして秀衡が病死。跡を継いだ泰衡(やすひら/山本浩司)とその兄である国衡(くにひら/平山祐介)とは仲が悪い。こうした混乱に乗じて、頼朝は義経を始末することを画策。頼朝の密命を帯びた北条義時は、平泉に向かった。

 

 義経に再会した義時は、自身の制止を聞かずに平泉に逃げ込んだことをたしなめる一方、義経の愛妾(あいしょう)である静御前(石橋静河)のその後を語った。義経と別れた直後に捕縛されたこと。義経の子を生んだものの、子が男子であったために殺されたこと。静御前は行方知れずとなり、遊女に身を落としたとの噂があること。

 

 義経の心中に頼朝への憎悪が芽生え、膨らんだことを確認した義時は、義経に挙兵の疑いがあることを泰衡に告げた。これ以上、平泉が義経をかくまうと、鎌倉勢に攻め込まれることになる。泰衡は、義経に不意打ちを仕掛けて首を取り、頼朝に献上することを決めた。自分の手は汚さず、義経の命を奪う。これが、頼朝の計画だった。

 

 しかし、義経はすべてを見通していた。泰衡による襲撃決行の夜、義経は密かに義時を呼び出す。泰衡の軍勢が迫るなか、義経は鎌倉の攻略法を義時に披露した。天才軍略家の考案した策は、一分の隙もない完璧なもの。義経は攻略法を鎌倉に伝えるため、義時を呼び出したのだ。

 

 ふたりの間に感傷的な別れの挨拶はなかった。義経はすでに館を取り囲まれ、絶対的な窮地に立たされている。それでも、その状況すら楽しそうにしている。義時に逃げ道を教えると、もはや義経は義時に対する関心を失っていた。最期の瞬間まで、戦闘に明け暮れた人生だった。

 

 文治5年(1189613日。義経の首が鎌倉に届けられた。

 

 頼朝はひとり、首桶(くびおけ)に語りかける。そして、大粒の涙を流して首桶を抱きしめた。

 

 

仏教都市として栄華を誇った平泉

 

「奥州藤原氏」とは、陸奥国(現在の青森県、岩手県、宮城県、福島県、秋田県北東部)の平泉を拠点に、約100年にわたって統治者として君臨した、藤原清衡(きよひら)、基衡(もとひら)、秀衡の三代(あるいは泰衡を加えた四代)のことである。

 

 古代の日本社会において、この地に住む人々は「蝦夷(えみし)」と呼ばれた。畿内を中心に権力を担う朝廷は、彼らを「まつろわぬ民」として度々軍勢を派遣して攻め込んでいる。「まつろわぬ」とは、国家に従わない、といった意味。

 

 武将・坂上田村麻呂(さかのうえたむらまろ)を中心とした征夷、すなわち蝦夷の征服事業により、蝦夷は律令国家の枠組みに編入。蝦夷たちは俘囚と称されるようになる。

 

 奥州藤原氏の始祖・清衡は、俘囚(ふしゅう)の長である安倍頼時(あべのときより)の娘と、陸奥国に下向した源頼清(みなもとのよりきよ)に随行したとされる藤原経清(つねきよ)との間に生まれた。

 

 経清は、俘囚が起こした反乱(前九年の役/1051年)の首謀者の一人として斬首された人物。反乱は中央から派遣された源頼義によって鎮圧されている。

 

 この戦いで高い評価を受けたのが俘囚の清原武則(きよはらのたけのり)だ。武則は俘囚でありながら頼義側につき、鎮圧に貢献した。戦後の論功行賞で清衡の母は、武則の子である武貞に強引に再婚させられる。つまり、清衡は父の敵といえる清原氏の養子として育てられたのだった。

 

 清衡と清原氏は、後に対立。清衡は父を滅ぼした源氏と組むという大胆な策で清原氏を滅ぼし、俘囚の王となった。

 

 これを機に父方の姓である「藤原」に改姓した清衡は、奥州の名産である名馬や砂金を献上して京の公家らに接近を図り、奥州の支配権を獲得した。

 

 さらに清衡は平泉に居館を築いて、仏教を基本としたまちづくりに着手。東北における統治権を強める一方、仏教施設を次々に建築し、奥州全土をまるで清衡による独立国家のように仕立て上げた。この頃に建築された代表的な仏教施設が中尊寺(岩手県平泉町)だ。

 

 仏教建築に彩られた壮麗なまちづくりは、俘囚たちの自尊心をくすぐると同時に、清衡への求心力を高めた。「奥州藤原氏」の基礎固めは、この時期に完成したといえる。

 

 二代・基衡は、清衡の確立した権益の保持に力を注いだ。基衡は、中央の国守や摂関家を相手に一歩も引かない強気の政治で渡り合い、奥州の覇者としての地位を確固たるものにした。

 

 三代・秀衡は、養和元年(11818月に陸奥守(むつのかみ)に任じられている。これはすなわち、秀衡による奥州支配を正式に朝廷に認められたということ。つまり、事実上の支配という状態から、名実ともに奥州の支配者という正統性を手にしたことになる。

 

 もっとも、その背景には当時の政治情勢が大きく関わっている。ちょうど、治承4年(1180)の源頼朝の挙兵、同年閏2月の平清盛死去により、権力のパワーバランスに大きな異変が起きていた頃だ。清盛亡き後、平家の棟梁となった平宗盛(むねもり)には奥州の軍事力に期待するところがあり、秀衡を陸奥守に任ずることで、奥州を味方に引き入れようとしていたと考えられる。

 

 この時、清衡や基衡と同様に、秀衡も老獪な政治力を発揮した。秀衡は「奥州は今すぐにでも立つ」という姿勢を表明しながら、ついに軍を動かすことはなかったのである。

 

 頼朝は、秀衡の思惑を読みきれなかった。そのため、思うように軍を動かすことができず、鎌倉に釘付けにされた。表立って平家に味方するわけでもなく、源平ともに秀衡の動向に振り回される格好となった。

 

 巧みな政治手腕によって中央の権力者たちを翻弄し、「奥17万騎」といわれた兵力を温存してきた奥州藤原氏だったが、最後はあっけないものだった。

 

 発端は、頼朝と対立した源義経が平泉に逃げ込んできたこと。頼朝と衝突しかねない爆弾を抱えることになった秀衡だったが、義経を庇護することを決定している。平家を滅亡に追い込んだ天才軍略家・義経を懐に抱えることで、秀衡が何を企んでいたのかは分からない。

 

 ところが、秀衡が突如病没したことで、一族の運命は暗転する。

 

 跡を継いだ、秀衡の子である泰衡は、頼朝からの執拗な圧力に屈して義経を襲撃。「義経を大将軍として、国務せしむべき」との父の遺命(『吾妻鏡』)に背いたのは平泉を存続させるためだったが、文治5年(11898月、頼朝軍の攻撃を受け、平泉は攻め落とされた。四代・泰衡は、清衡らに比べ、政治を知らなかったのだとする見方が多い。

 

 頼朝軍に恐れをなして逃げ出した泰衡が火を放ったことで、栄華を誇った平泉は灰燼(かいじん)に帰した。泰衡は逃亡中に家臣に裏切られて殺害されている。

 

 約100年におよんだ「奥州藤原氏」による奥州支配は、こうして終わりを告げた。奥州藤原氏三代の遺体と泰衡の首は、中尊寺金色堂に今も安置されている。

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小野 雅彦おの まさひこ

秋田県出身。戦国時代や幕末など、日本史にまつわる記事を中心に雑誌やムックなどで執筆。著書に『なぜ家康の家臣団は最強組織になったのか 徳川幕府に学ぶ絶対勝てる組織論』(竹書房新書)、執筆協力『キッズペディア 歴史館』(小学館/2020)などがある。

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