創設から終焉まで鎌倉幕府を支えた「二階堂氏」
北条氏を巡る「氏族」たち⑳
6月12日(日)放送の『鎌倉殿の13人』第23回「狩りと獲物」では、父の敵討ちと称して曽我(そが)兄弟が計画した源頼朝暗殺がついに実行に移された。さまざまな思惑が絡み合い、事件は思いもかけぬ方向へと転がりだす。
曽我兄弟による暗殺計画が動き出す

神奈川県鎌倉市にある永福寺跡。2度にわたる火災を乗り越えて再建された。しかし、応永12年(1405)の火災で多くの建物が焼け落ちた後、建て直されることはなかった。
イノシシや鹿をしとめる大規模な狩りである「巻狩り」が富士のすそ野で行なわれた。坂東各地から御家人が集結する軍事演習を兼ねた狩りで、源頼朝(大泉洋)の嫡男である万寿(まんじゅ/金子大地)の初陣でもあった。
何日もかけて行なわれるものだが、万寿はなかなか思うような成果が得られない。一方、北条義時(小栗旬)の嫡男・金剛(こんごう/坂口健太郎)は子鹿や鴨をしとめるなど、武者として立派に成長していた。
頼朝らの工作によって何とか子鹿をしとめた万寿だったが、それは金剛のしとめた獲物を動かぬように細工したものだった。万寿も薄々気づいている。万寿は金剛に、いつか必ず自分の力で鹿をしとめてみせる、と誓った。
そんなある夜。頼朝は、比企能員(ひきよしかず/佐藤二朗)の姪である比奈(ひな/堀田真由)の寝床に忍び込もうとしていた。側近の安達盛長(あだちもりなが/野添義弘)は厳しく制止。頼朝はいったん諦めたふりをして、自身の身代わりに工藤祐経(くどうすけつね/坪倉由幸)を布団に寝かせた。盛長の目を欺き、深夜にこっそり宿所を抜け出すためだ。
果たして、比奈のもとへたどり着いた頼朝が目にしたのは、待ち構えていた義時の姿だった。頼朝の行動を見計らって、警戒していたのである。
頼朝は怒って部屋を飛び出した。すぐに後を追った義時だったが、見失ってしまう。
ちょうどその頃、敵討ちと称して頼朝の首を狙う曽我兄弟が、頼朝の寝所を襲撃。頼朝の身代わりとして布団で横になっていた祐経が斬り殺された。
襲撃の一報が広がるなか、義時は金剛とともに頼朝の宿所に駆けつける。宿所では、すでに万寿が適切な指示を各所に下した後だった。義時は、その見事な采配に感服した。
頼朝の寝所に向かうと、首のない遺体が転がっている。呆然と立ち尽くす義時に、背後から声をかけてきたのが、頼朝本人だった。頼朝は、比奈の宿所から帰る途中、突然に降り出した雨を避けて雨宿りをしていたおかげで九死に一生を得たのだった。
混乱は頼朝政権の拠点である鎌倉にも波及していた。頼朝はおろか、万寿も殺されたとする噂が飛び交い、留守を預かる頼朝の弟・源範頼(のりより/迫田孝也)は対策に追われた。この機に乗じて、鎌倉を襲う勢力があるかもしれないからだ。
次の鎌倉殿に万寿を就任させようとしていた比企能員は、範頼に接近。死んだと見られる万寿の代わりに範頼を次期の鎌倉殿とすれば、いち早く範頼を支えた自身の地位が一気に高まると考えたのである。
能員の進言に基づき、範頼は次の鎌倉殿に自身を据えるよう側近らに協議を要求。大江広元(おおえひろもと/栗原英雄)は事実確認が先である、と反対するも、三善康信(みよしやすのぶ/小林隆)は一刻も早い事態の収拾のために就任を急ぐべきと主張して、側近の間でも意見が割れた。
富士野では、事件の首謀者である曽我五郎(田中俊介)が死罪となった。義時の機転で、義時の父であり、五郎の烏帽子親(えぼしおや)である北条時政(坂東彌十郎)に累が及ぶことはなかった。しかし、一族の存続のため五郎を犠牲にする非情な決断を厭わない義時に、時政は複雑な表情を見せる。
頼朝の悪運の強さを改めて思い知った義時だったが、頼朝は、今回は天の導きの声がなかった、とこぼす。弱々しい笑みを浮かべる頼朝に、義時は返す言葉を見つけられないでいた。
鎌倉に戻り、無事な姿を見せた頼朝に、妻の北条政子(小池栄子)らは胸をなでおろす。しかし、襲撃の一報で混乱した御所において範頼が取った行動を知った頼朝は、怒りを覚えるのだった。
「二階堂」姓の由来は奥州・平泉の中尊寺
鎌倉幕府の官僚として活躍した二階堂行政(にかいどうゆきまさ)は、二階堂氏の始祖となった人物である。
もともとは朝廷の官僚で、後鳥羽天皇のもと摂政や関白を務めた九条兼実の日記である『玉葉(ぎょくよう)』によれば、行政は治承4年(1180)に主計少允に任じられている。主計とは、予算の立案や配分などを差配する、今日でいう財務官僚のような役割。
藤原南家乙麻呂流工藤氏の流れを汲む工藤(藤原)行遠が行政の父だ。藤原南家は、奈良時代の政治家である藤原不比等(ふじわらのふひと)の長男・武智麻呂(むちまろ)の別称で、彼の子孫の総称でもある。
武智麻呂の四男(三男とする説もある)・乙麻呂の系統の多くは、関東の武士となっている。ドラマに出てきた伊東氏もそのうちの一流だ。
行政の母は、熱田大宮司家の藤原季範(すえのり)の妹。源頼朝の母も熱田大宮司家の娘なので、頼朝と行政とは縁戚関係にあった。
その関係からか、行政はかなり早い段階から頼朝に仕えている。朝廷で多くの実務に当たってきた行政の手腕を買った頼朝が鎌倉に呼び寄せたもの、と考えられている。
行政の名前が『吾妻鏡』に出てくるのは、「公文所を新造被る。今日立柱上棟。大夫属入道(三善康信)・主計允(行政)等奉行也」とある元暦元年(1184)8月24日条が初出。これは、新築した公文所の祝いの式を取りまとめた奉行が三善康信と行政だった、とする内容だ。
行政は文治5年(1189)に行なわれた奥州合戦にも従軍している。もっとも、兵としてではなく戦後処理を担当したものと考えられる。
建久2年(1191)には政所令に就任。2年後には別当に昇格した。子の行光も建保6年(1218)に政所執事に任命されており、政所は代々、二階堂氏が世襲することとなる。
頼朝の没後は、ドラマのタイトルでもある『鎌倉殿の13人』のうちの1人として、合議制の一員に加わった。
源実朝(さねとも)が三代将軍に就任する頃から、『吾妻鏡(あずまかがみ)』における行政の記載がなくなっている。おそらくこの頃に亡くなったのだろうと考えられている。
鎌倉時代を通じて、二階堂氏は多くの分家を出したことでも知られる。一族の多くは評定衆や引付衆といった役職を任じられた。鎌倉幕府崩壊後も、室町幕府において引き続き、官僚として出仕している。
さて、頼朝に仕えた当初は藤原あるいは工藤を名乗っていた行政が、なぜ二階堂氏を名乗るようになったのか。その所以は、鎌倉に置かれた行政の住まいにある。
当時、頼朝は奥州合戦において目にした平泉の中尊寺(ちゅうそんじ)に感銘を受け、これを模した永福寺(ようふくじ)の建立を行政に命じている。弟の源義経や藤原泰衡(やすひら)など、亡くなった数万の霊をなだめることを目的としたものだが、行政の住居は、この永福寺の近辺にあった。
永福寺は中尊寺の二階大堂長寿院を模したものだ。頼朝のみならず、造立奉行を命じられた行政も、中尊寺の美しさに魅入られていたに違いない。
いずれにせよ、永福寺にまつわる「二階堂」にちなみ、行政は二階堂氏を名乗るようになったといわれている。