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頼朝に後事を託されるほど信頼された「畠山氏」

北条氏を巡る「氏族」たち⑲


6月5日(日)放送の『鎌倉殿の13人』第22回「義時の生きる道」では、妻の八重(新垣結衣)を亡くした北条義時(小栗旬)のその後の様子が描かれた。失意のうちに鎌倉政権と距離を置いた義時のもとに、源頼朝(大泉洋)や御家人らが訪れ、帰参を求める。


北条氏と比企氏の対立が不穏な空気を招く

 

埼玉県深谷市の畠山重忠公史跡公園に建つ畠山重忠の銅像。源平合戦の一ノ谷の戦いで、鵯越の逆落としの際に愛馬である三日月を背負って下りた、とする故事が表現されている。

 最愛の妻・八重を亡くした北条義時は、これまで己のしてきた所業を振り返り、「天罰だ」とうなだれる。

 

 ふさぎ込む義時を強引に引きずり出した源頼朝は、建久元年(1190119日、大軍を率いて上洛。後白河法皇(西田敏行)との対面を果たした。頼朝は戦のない世を目指すと宣言。法皇から全国の守護を請け負うことの許可をもぎ取った。

 

 その夜、頼朝に随行した御家人たちが開いていた宴の席で、義時は畠山重忠(はたけやましげただ/中川大志)から再び謀反の気配があることを知らされる。

 

 それからまもなくして後白河法皇が崩御(ほうぎょ)。その後、頼朝は朝廷より征夷大将軍に任じられ、名実ともに武家の棟梁となった。建久3年(11927月のことだった。

 

 その翌月、頼朝と北条政子(小池栄子)との間に、第四子となる千幡(せんまん/のちの源実朝)が誕生。乳母夫には実衣(宮澤エマ)と阿野全成(あのぜんじょう/新納慎也)の夫婦が選ばれた。

 

 頼朝の長男・万寿(まんじゅ)の乳母夫(めのと)を務めていた比企能員(ひきよしかず/佐藤二朗)は、千幡の乳母夫が北条氏の人間になったことに焦りを見せ始める。もし千幡が頼朝の後継者となれば、比企氏の力は衰え、北条氏の力が増すことになる。

 

 そこで、能員は姪の比奈(ひな/堀田真由)を頼朝のもとに送り込むことを計画。比奈を頼朝の側女にするのが狙いだ。

 

 見目麗しい比奈をひと目見た瞬間に、頼朝は虜になった。ところがすぐさま政子に咎められたため、頼朝はとっさに比奈を義時の再婚相手だと嘘をつく。比企の血筋の比奈と、北条の血筋との縁は両氏の関係を取り持つ上で、決して悪いものではない。政子は、喜び勇んで縁談を進めることにした。ところが、肝心の義時に再婚する気持ちはなかった。

 

 建久4年(1193)、義時の父である北条時政(坂東彌十郎)は、家人である曽我十郎(田邊和也)と曽我五郎(田中俊介)の兄弟から、敵討ちを画策していることを打ち明けられた。敵とは工藤祐経(くどうすけつね/坪倉由幸)。彼らの父である河津祐泰(かわづすけやす/山口祥行)は、祐経が誤って殺してしまった人物だった。

 

 五郎の烏帽子親(えぼしおや)である時政は、兄弟の敵討ちの支援を約束。ところが、兄弟の真の狙いは祐経の首ではなく、祐経殺害の混乱に乗じて頼朝を討つことだった。

 

 怪しげな動きを察知した梶原景時(中村獅童)は、義時を密かに呼び出した。父・時政がとてつもない陰謀に巻き込まれていることを知らされ、義時は驚愕したのだった。

 

要職に就かなかった「坂東武者の鑑」

 

「坂東武者の鑑」と称えられる畠山重忠は、桓武平氏の流れを汲む武士だ。

 

 平将門(たいらのまさかど)の叔父にあたる平良文(よしふみ)の後裔(こうえい)で、武蔵国(現在の東京都と埼玉県のほぼ全域と神奈川県の一部)に勢力を誇った秩父一族が、畠山氏のルーツとなる。

 

 当時、武蔵国にはさまざまな武士団がひしめき合っていたが、秩父氏はそのうちでも大きな勢力だったようだ。やがて秩父氏は畠山氏、江戸氏、河越氏などに分かれて、それぞれで独立した武士団を率いるようになる。

 

 畠山氏は、現在の埼玉県深谷市畠山付近を拠点にした。秩父重綱(ちちぶしげつな)の孫である秩父重能(しげよし)がこの地の開発領主となったことから、重能の代から畠山氏を名乗っている。

 

 重能は秩父一族の家督をめぐって源頼朝の父である源義朝と手を組み、一族の河越重隆を攻め滅ぼしたが、望みは叶わなかったらしい。

 

 その後、保元の乱や平治の乱が勃発。武蔵の武士の多くが義朝、すなわち源氏に付き従ったが、この頃の重能は源氏と距離を置いていたようだ。戦には参加していないと見られている。戦後、武蔵国が平家の勢力下となると、重能は平家に臣従した。

 

 治承4年(1180)に頼朝が挙兵した際、重能は平家の家人として京都にいた。不在の父に代わって頼朝勢に対抗したのが、子の重忠であった。由比ヶ浜で頼朝方についた三浦氏と戦ったものの敗れたため、一族の河越氏や江戸氏を糾合して三浦氏の居館である衣笠城(神奈川県横須賀市)を攻撃。城主で三浦氏当主の三浦義明(みうらよしあき)もろとも、城を攻め落とした。

 

 重忠は、後に「父が平家に奉公しているため、何の恨みもないが源氏の挙兵に与した三浦氏を見過ごすわけにはいかなかった」と和田義盛(わだよしもり)に語っている(『源平盛衰記』)。

 

 安房国(現在の千葉県南部)に撤退した時、頼朝は武蔵国の武士団に服属を求めている。そのうちの一人に、秩父一族の江戸重長(えどしげなが)がいた。どうやらこの時に一族の重忠、重長、河越重頼(かわごえしげより)が源氏への帰順について検討し、頼朝方に鞍替えすることを決めたようだ。

 

 頼朝は、重忠を受け入れるよう、三浦氏を自ら説得して過去の因縁の払拭に尽力したらしい。そうした上で、重忠は鎌倉入りの際の先陣を任されたのだった。

 

 頼朝が重忠に先陣を任せたのは「譜代勇士、弓馬達者、容儀神妙」(『吾妻鏡』)という条件にかなったからだといわれている。すなわち、重忠は武勇に優れ、容姿にも恵まれた人物だったと見ることができる。

 

 さらに重忠は、幼い頃に京都に滞在して教養を広く身に着けていたらしい。『吾妻鏡』で重忠は「京都に馴るる輩」と紹介されており、歌を歌ったり、楽器を奏でたりするのも得意だった。それが、頼朝に気に入られた理由の一つでもあるようだ。

 

 ドラマにも描かれている通り、その後の重忠は木曽義仲討伐や平家討伐、さらには奥州合戦など各地で転戦を繰り広げ、頼朝の御家人としての信頼を勝ち得ていく。

 

 一方で、文治3年(1187)に領地で代官が不正を働いたために重忠は囚われの身になったことがある。この時、重忠は所領の一部を没収されている。自身の関知するところではなかったと弁明したものの、認められなかった。

 

 抗議の気持ちからか、重忠は捕らえられてから7日もの間、絶食し、睡眠も取らなかった。さらに口を開くこともなくなっていったという。

 

 身元を預かっていた千葉胤正(ちばたねまさ)は何度も食事を勧めたが聞き入れてもらえず、ついには頼朝に赦免を懇願した。さすがの頼朝も許したが、重忠は代官の不義を恥じて、そのまま武蔵国に引きこもってしまったという。

 

 そんな重忠の行動を梶原景時が「謀反の兆候あり」と頼朝に進言したのは、それからまもなくのことだった。

 

 自身による謀反の噂が立ったことを知って絶望した重忠は、自害しようとさえしたという。鎌倉からの使者の必死の説得もあり、自害は回避。再び鎌倉で弁明にあたることになった。その相手が梶原景時だった。

 

 景時から起請文の提出を求められた重忠は、毅然とした態度で拒否した。

 

「源氏の天下において、頼朝を武将の主と仰ぐ後は更に二心はない。重忠は心と言葉に異なるところがない。起請文は言葉を信用できない悪い人間に書かせるものだ。重忠に嘘がないことは(頼朝が)かねてから知っていることである」(『吾妻鏡』)

 

 と主張したのである。景時から一部始終を聞いた頼朝は、重忠を咎めるどころか、褒美を渡して許したという。

 

 頼朝は、重忠の忠心を心から信用していたようで、死の間際に重忠を呼び寄せ、幕府の後事を託したともいわれている(『承久記』)。

 

 ここまで頼朝に信頼されていた重忠だったが、幕府の要職に就任した様子はない。後の13人の合議制にも名を連ねてはいない。まだ若かったから、と説明されることもあるが、ほぼ同年代の義時が合議制の一員に入っていることから、他に理由があるのかもしれない。

 

 いずれにせよ、重忠にはこうした清廉潔白な逸話が多く残されている。そのため、「坂東武者の鑑」と称されているが、その末路については不幸としかいいようのないものとなった。

 

 なお、息子の重保(しげやす)とともに重忠が死んだ後、重忠の妻(北条時政の娘)が足利義純(あしかがよしずみ)と再婚。義純は重忠の旧領を与えられ、畠山氏を継承している。

 

 

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小野 雅彦おの まさひこ

秋田県出身。戦国時代や幕末など、日本史にまつわる記事を中心に雑誌やムックなどで執筆。著書に『なぜ家康の家臣団は最強組織になったのか 徳川幕府に学ぶ絶対勝てる組織論』(竹書房新書)、執筆協力『キッズペディア 歴史館』(小学館/2020)などがある。

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