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尼将軍・北条政子の温情により命脈を保った「稲毛氏」

北条氏を巡る「氏族」たち㉒


6月26日(日)放送の『鎌倉殿の13人』第25回「天が望んだ男」では、迫りくる死の恐怖に怯える源頼朝(大泉洋)の姿が描かれた。頼朝が自身の来し方を振り返る一方、次の鎌倉殿を想定した北条氏と比企氏との対立も徐々に表面化しつつあった。


 

死の恐怖におののく源頼朝に最期の時が近づく

 

神奈川県茅ヶ崎市に残る旧相模川橋脚跡。重成の架橋した場所は長らく不明だったが、大正12年(1923)の関東大震災で発生した液状化現象で出現した橋脚が重成の架けたものと鑑定された。現在は国の史跡および天然記念物に指定されている。

 

 毎晩、悪夢にうなされる源頼朝は、弟で僧侶の阿野全成(あのぜんじょう/新納慎也)に助言を求める。全成は相性のよくない色を遠ざけたり、久しぶりの者との対面を控えたりするなどいろいろと忠告するが、頼朝のあまりの形相にたじろぐ。

 

 そんななか、頼朝の嫡男である頼家(よりいえ/金子大地)と比企氏の娘であるせつ(山谷花純)との間に一子が授かった。比企能員(ひきよしかず/佐藤二朗)はこれを機に2人の婚礼を急がせようとするが、頼家にはその気はない。頼家にはつつじ(北香那)という想い人がおり、結婚はつつじとするつもりだ。

 

 つつじの素性が頼朝の叔父にあたる鎮西八郎為朝の孫と知ると、頼朝も、北条義時(小栗旬)も異論を挟む余地はない。源氏の血筋の者を正妻に迎えることは、比企氏も反対はできまいと頼朝は判断。こうして頼家の正妻はつつじに決まった。子を生んだせつは側女となる。

 

 建久9年(119812月、北条時政(坂東彌十郎)の四女・あき(尾碕真花)の追善供養の式が行なわれることになった。3年前に亡くなったあきの夫の稲毛重成(いなげしげなり/村上誠基)が供養のために相模川に橋を架けたのである。その落成式に義時以下、北条一族が集まり、頼朝も参列した。

 

 式を終えた後、頼朝は妻の北条政子(小池栄子)と義時に、頼家に鎌倉殿の座を譲り、自身は大御所となることを告げた。政子が立ち去った後、頼朝は義時に、さらに告白を続けた。

 

「人の命は定められたもの。あらがってどうする。甘んじて受け入れようではないか。受け入れた上で、好きに生きる。神仏にすがっておびえて過ごすのは時の無駄じゃ」

 

 まるで憑き物が落ちたように、頼朝の表情から死への怯えが消え失せていた。義時は安堵して答える。

 

「鎌倉殿(頼朝)は昔から、私にだけ大事なことを打ち明けてくださいます」

 

 頼朝を頂点とした鎌倉幕府の御家人として、義時は誇らしい気持ちとなった。

 

 義時ら北条一族と別れ、安達盛長(あだちもりなが/野添義弘)とともに御所へと帰る途上でのこと。馬上の頼朝は急にろれつがまわらなくなり、右手にしびれを覚えた。しびれは全身に伝わり、何物かへの恐怖が頼朝の表情を強ばらせた。急激に頼朝の意識は遠のき、そして馬から転げ落ちた。

 

 その瞬間、これまで頼朝と関係を築いてきた者たちは、何かの気配を察知した。

 

 政子、畠山重忠(はたけやましげただ/中川大志)、頼家、和田義盛(わだよしもり/横田栄司)、三浦義村(みうらよしむら/山本耕史)、大江広元(おおえひろもと/栗原英雄)、梶原景時(かじわらかげとき/中村獅童)、比企能員、りく(宮沢りえ)……。

 

 一方、祠(ほこら)に手を合わせていた義時の瞳には、悲しげな色が浮かんでいた。

 

従兄弟の畠山重忠を滅亡に追いやった「稲毛氏」

 

 稲毛重成は、武蔵国稲毛荘(現在の神奈川県川崎市高津区、中原区)を本領とした豪族。重成は小山田有重(おやまだありしげ)の子として生まれた。父が小山田庄(現在の東京都町田市)を本領としており、重成も当初は小山田姓を名乗っていたが、領地を稲毛荘と定めた時に稲毛姓に改めたようだ。母は宇都宮宗綱(うつのみやむねつな)の娘。

 

 一族は秩父氏の流れを汲む。秩父氏とは、平将門(たいらのまさかど)の叔父にあたる平良文(たいらのよしふみ)の子孫で、武蔵国(現在の東京都と埼玉県のほぼ全域と神奈川県の一部)に勢力を誇った。坂東八平氏と呼ばれる関東の有力者の一角で、同じ秩父氏の流れを汲む鎌倉の御家人に、畠山重忠がいる。重忠の父・畠山重能(しげよし)が、重成の父である小山田有重の兄であるため、畠山重忠と稲毛重成とは従兄弟の間柄となる。

 

 重成は同じ秩父一族の畠山重忠らと同様、源頼朝の挙兵時には平家方に与していたが、後に頼朝に臣従。叔母が頼朝の乳母を務めていた関係から、重成は頼朝の妻である北条政子の妹を妻に娶っている。

 

 重成は、元暦元年(1184)に行なわれた木曽義仲討伐の際に戦功を立てたという。また、源平合戦や奥州藤原氏との戦闘にも参加。北条氏との姻戚関係もあって幕府内では重用された。

 

 建久6年(1195)に妻が病没。これを機に重成は出家している。亡き妻の供養のために相模川に橋を架けたのは、建久9年(1198)のこと。『吾妻鏡』には、橋の落成式に頼朝が参列したことが記されている。同書には、頼朝の死去がそれからまもなくのことだったと書かれているが、死因については明らかにされていない。

 

 その後、重成は幕府の功労者の一人であり、従兄弟でもある畠山重忠滅亡のきっかけを作ったとされ、子の重政、弟の榛谷重朝(はんがやしげとも)、その子である重季(しげすえ)とともに謀殺されている。

 

 元久2年(1205)、一族の小沢重信(おざわしげのぶ)が重成の娘の子を連れて京から鎌倉にやってきた。この時、政子は重信の連れてきたわずか2歳の娘を自分の猶子(ゆうし)として引き取っている。政子の行動はおそらく、自身の父である北条時政の外曾孫にあたる娘を哀れんでのことだろうといわれている。政子が娘に重成の遺領である武蔵国小沢郷(現在の東京都稲城市)を与えたことで、一族の命脈は保たれた。

 

 後に、一族の大半は讃岐国(現在の香川県)に移り住んだといわれている。

 

 ちなみに、東京都立川市に本社を置くスーパーマーケット「いなげや」の屋号は、稲毛重成が由来とされる。明治33年(1900)に鮮魚商を立ち上げた創業者・猿渡波蔵(さわたりなみぞう)は、自身が生まれ育った土地をかつて統治していた稲毛重成にあやかって「稲毛屋」と名付けたのだという。

 

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過去記事

小野 雅彦おの まさひこ

秋田県出身。戦国時代や幕末など、日本史にまつわる記事を中心に雑誌やムックなどで執筆。著書に『なぜ家康の家臣団は最強組織になったのか 徳川幕府に学ぶ絶対勝てる組織論』(竹書房新書)、執筆協力『キッズペディア 歴史館』(小学館/2020)などがある。

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