歴史から抹消された「源頼朝の死因」とは?─病死?呪い?暗殺?ストレス?
今月の歴史人 Part.4
実は鎌倉幕府を打ち立て、栄華を誇った源頼朝の死について、史料は多くを語っていない。あれほどに歴史に名を残した偉人であるにもかかわらず、記録が残されていないことには様々な説が飛び交っている。記録が抹消されたのか、はたまただれかの企みがからんでいたのか…。本記事では「頼朝の死」についての諸説とともに事実関係を紐解いていく。
最晩年の記録は不明絶対的権力者の死

源頼朝頼朝の功績は後世への影響も大きく武士として具体的な政権と築いた人となった。徳川家康も尊敬する武将として挙げている。 東京国立博物館蔵/出典:Colbase
源頼朝は、建久10年(1199)正月13日、53歳の生涯を閉じた。
その死因は病死とされるが、必ずしも明確ではない。『吾妻鏡(あづまかがみ)』は源頼朝最晩年期の建久7年~10年の正月までを欠いており、そのため詳細な死亡記事もなく、わずかに建暦2年(1212)2月28日条に頼朝は相模川に架橋した橋の供養(開通式)に参加し、その帰路、落馬して程なく亡くなったと橋の修理記事に関連して言及されるのみである。
この欠落について、『吾妻鏡』は代々の将軍ごとに編纂されているので、頼朝将軍伝の最後が書ききれなかったとか、頼朝を尊敬する徳川家康が故意に死亡記事を削除したとか諸説あるが定かではない。
藤原定家(ふじわらていか)の日記『明月記』には、早朝に頼朝死去の風聞を得たとあり、また慈円の『愚管抄』では15~16日頃から噂になっていたとある。
おそらく京都への幕府からの公式の連絡は17日頃なのであろうが、それ以前より重病説は京都へも流れていたのであろう。
その他の公家の日記では一様に、11日に所労危篤に陥り出家し、13日に死去したとある。ひとつには「飲水重病」とみえ、糖尿病を患っていたようで死因のひとつとされる。しかしこれが直接の死因かどうかは不明だ。『吾妻鏡』では落馬後、程なく死去とする。乗馬には慣れていたはずで、循環器系か心臓発作など突発的な発病による落馬の可能性が高いのではなかろうか。
定家は「朝家の大事、何事かこれに過ぎんや」と、朝廷にとっても一大事と記している。そのカリスマの死は幕府に限らず大きな衝撃であった。
衝撃が大きいからこそ、頼家への権力継承はより速やかに行われた。頼朝死去の7日後の20日、朝廷は頼家を左中将に任じ、26日には頼朝の後継者として「諸国守護」を奉行するよう宣下する。迅速な措置だが、それは『愚管抄』に記されているように、15~16日ころには頼朝の容態危急の連絡と、その対応要請が幕府側から通知されていたからであろう。
つまり13日の死去を待たず、幕府では事後の対処が進められていたことになる。
鎌倉幕府にもたらされた急報2代将軍の擁立を急ぐ

源頼朝墓大倉法華堂(現在の白旗神社)に葬られた。写真は江戸時代に島津氏によって整備されたもので、高さ186cmの5層の石塔である。
諸国守護奉行の宣下が、2月6日に鎌倉へもたらされると、その日、幕府では政所の吉書始の儀が、北条時政・大江広元・三浦義澄・比企能員・梶原景時ら主要御家人列席の上で執り行われた。
政所は幕政の中心機関で、吉書始はその業務開始の儀式である。
本来、政所は公卿、すなわち三位以上の身分でなければ設置できなかったが、頼家は五位での設置という特例になる。
そもそも頼朝の死去から20日にも満たないのに、頼家政権を本格始動させていること自体、異常といえば異常であって、『吾妻鏡』は「綸旨厳重(天皇の命令だから)」仕方がなかったと言い訳している。
頼朝権力が頼家へ順当に継承されることが、公武ともに重要であったため、強い連携の上で速やかな対処がなされた。頼朝が担っていた諸国守護奉行という国家的役割の重要性が知られよう。
【源頼朝 死因の諸説】
徳川家康による破棄説 | 頼朝の最晩年の記録はほとんど残されていない。この事実に対して、よく言われているのが徳川家康による破棄説だ。家康が「頼朝死去の記事は名将の傷になる」と破り |
病 死 | 藤原定家、慈円らによる当代の記述では「急病」「病気」と記している。頼朝は塩辛いものを好んだ上、棟梁としてのストレスを抱えていたことを考慮すると、糖尿病や脳梗塞であったという説もある。 |
落馬起因説 | 『吾妻鏡』には「相模川の橋を新造し、頼朝はその落慶供養に出たが、帰路に落馬してまもなく死去した」とある。 |
水神に取り憑かれた | 軍記物語『承久記』では、橋供養の帰りに、水を司る水神に取り憑かれ、発病して死んだ、と伝える。 |
怨霊の怨念によって呪い殺された | 『保暦間記』では、橋供養の帰路に源義経、源義広、安徳天皇、平家の怨霊が現れ、病気となって死んだという。 |
この後、4月12日、訴訟裁判については、頼家の直裁を止めて、北条時政ら13人による合議制としたとされる。あたかも頼家政権が発足したが、頼家が無能だったのでその権力を制限して合議制へ転じたように『吾妻鏡』は記す。
しかし先の政所始に参列したメンバーと合議制の13人は多く一致している。
頼家政権は、これら有力御家人らが朝廷との交渉なども含めて、周到に準備し船出させた権力体なのであり、もとより有力御家人による集団指導体制であった。
頼家無能論に転じさせたのは『吾妻鏡』編者の意地悪であろう。
監修・文/菱沼一憲