追放された梶原景時は、なぜ京を目指したのか?
頼朝亡き後の謀反・抗争を巡る謎①
7月24日(日)放送の『鎌倉殿の13人』第28回「名刀の主」は、本格的に始動した源頼家(みなもとのよりいえ/金子大地)体制下の幕府の様子が描かれた。若さゆえの未熟な統治者のもと、御家人たちの心は徐々に離れ、鎌倉政権に深刻な亀裂が走りつつあった。
頼家の暴走に御家人の心が離れ始める

静岡県静岡市にある梶原山公園
梶原景時が最期を迎えた場所であることから地名に「梶原」が付けられたという。景時は「もののふの覚悟もかかる時にこそこころの知らぬ名のみ惜しけれ」との辞世の句を遺したと伝わっている。
新たな鎌倉幕府の体制として、13人の合議制が始まった。
しかし、評議にまとまりがない上に、私情を差し挟む者も現れる始末。その様子を見て、北条義時(ほうじょうよしとき/小栗旬)も梶原景時(かじわらかげとき/中村獅童)も嘆息(たんそく)をもらす。
一方、鎌倉殿に就任したばかりの源頼家は、13人の宿老たちによって政務からのけ者にされていると感じ、ますます意固地になっている。自身が選んだ若き御家人らによる6人衆を束ねて宿老たちに対抗するつもりだ。母の北条政子(ほうじょうまさこ/小池栄子)は、頼家の稚拙(ちせつ)な政策に呆れながらも義時と景時にしっかり頼家を補佐するよう命じる。
そんななか、政子の妹である実衣(みい/宮澤エマ)に琵琶を教えていた結城朝光(ゆうきともみつ/高橋侃)に謀反(むほん)の疑いが持ち上がっていたことが発覚する。先の鎌倉殿である源頼朝(大泉洋)の死を悼み、「頼朝様にはもっと生きていてほしかった。忠臣は二君に仕えず」と発言したことを耳にした梶原景時に、謹慎を告げられていたのだった。
朝光がこうした発言に至ったのは理由があった。現在の将軍である頼家は、宿老の一人であり、頼朝の代からの忠臣・安達盛長(あだちもりなが/野添義弘)の息子である景盛(かげもり/新名基浩)から、その妻・ゆう(大部恵理子)を奪おうとするなど、傍若無人な振る舞いが続いていた。妻を差し出そうとしない盛長・景盛父子を処刑しようとすらした頼家に、御家人たちの心が離れつつあったのである。
御家人たちの心を再び結束させるため、景時は朝光を処刑することを提案。見せしめのためである。
これを知った御家人らは猛反発。景時に反感を抱く者の署名を集めて対抗することにした。表立って景時と対立したくない義時が、三浦義村(みうらよしむら/山本耕史)に密かに依頼したものだったが、4〜5人ならまだしも、66人分もの署名が集まったことは想定外だった。
その結果、疑いの晴れた朝光は無罪。多くの御家人らの訴えに弁明をしなかった景時は流罪を命じられることになった。
景時は、流罪の命を受け入れず、頼家の子である一幡(いちまん/白井悠人)を人質に京へ逃げ出す構えを見せた。景時失脚を聞きつけた後鳥羽上皇(尾上松也)が景時を自身の手元に置こうと呼び寄せていたのだ。
すんでのところで駆けつけた義時の説得により、景時は一幡を返した。そして、流罪先に命じられた奥州・外ヶ浜へ向かうと言い残して去って行った。
しかし、義時は嫡男の北条頼時(よりとき/坂口健太郎)に兵を調えるよう命令。景時は西に向かうはずなので、東海道で討ち取るという。義時は、景時が華々しく戦で死ぬ心積もりであることを見抜いていたのだった。
度重なる讒言に嫌気がさした御家人たちの反抗
「梶原景時の変」が起きたのは、正治2年(1200)1月のこと。ちょうど源頼朝の一周忌の頃のことである。
きっかけは、ドラマにあったように結城朝光の一言だった。ある日、朝光がこぼしたのは「忠臣は二君に仕えずというが、どうして私は頼朝様が亡くなった時に一緒に死ななかったのか。今の世情をみると、薄氷を踏む思いがしてならない」といった内容のもの。これを聞いた御家人らは、同様の思いを抱えていたからか、涙を禁じ得なかったという。
これを聞きつけた景時は、すぐさま頼家に告げ口をしている。そして謀反の疑いをかけ、朝光を滅ぼそうとしたのである。
同じように景時の讒言(ざんげん)によって不利益を被った御家人は枚挙にいとまがない。代表的な人物に、頼朝の弟である源義経がいるが、その他にも上総介広常(かずさひろつね)も景時の讒言によって誅殺(ちゅうさつ)された、とする説もある。かろうじて嫌疑を晴らすことができたものの、畠山重忠(はたけやましげただ)も被害者の一人であり、夜須行宗(やすゆきむね)という武士に至っては、壇ノ浦の戦いでの功績をなかったことにされたという(『吾妻鏡』)。御家人たちは、こうした景時の〝讒言〟をもとにした処罰にうんざりしていたのである。
ところが、実は、景時が朝光を殺そうとしている、との証言は、北条政子の妹である阿波局(あわのつぼね/ドラマの中では実衣)が朝光にもたらしたものだ。本当に景時が朝光を殺そうとしていたのかどうかは、経緯を記した『吾妻鏡』からは見て取れない。
いずれにせよ、阿波局からの情報に慌てた朝光は、親交のあった三浦義村に相談。義村が和田義盛(わだよしもり)や安達盛長らと方策を練った結果、御家人66人による弾劾状に至った。
この弾劾状には「鶏を飼う者はこれを害する狸を養わない。獣を飼う者はこれに敵対する狼を育てない」という一句が添えてあった(『北条九代記』)。名を連ねたのは、千葉常胤(ちばつねたね)、三浦義村、畠山重忠などの他、三浦義澄、足立遠元(あだちとおもと)、和田義盛、比企能員(ひきよしかず)、安達盛長など13人の宿老の署名も見られた。主だった御家人のほとんどが署名したようだ。
ところが、弾劾状には政権内で権勢を振るっていたはずの北条時政、北条義時の名がない。彼らが弾劾状にどのような反応を見せたのかも分からない。景時は上洛途上の駿河国清見関(現在の静岡県静岡市清水区)で討たれているが、この地は時政が守護を務める場所である。事の発端が北条方の阿波局の密告ということもあり、一連の事件は景時を追い落とすための北条氏の陰謀だったのではないか、という説は古くから根強くささやかれている。
この事件の謎はそれだけではない。
頼家に弾劾状を突きつけられた景時は一切弁解せず、自身の所領のある相模国一宮(現在の神奈川県寒川町)にいったん退去。それからひと月も経たないうちに、なぜか再び鎌倉に戻ってきている。
それからまもなくして景時の鎌倉追放が正式に決定された。再び所領に戻った景時は、上洛を決意して密かに軍勢を動かしている。これを察知した幕府は、景時の行動を謀反とみなして、討伐軍を派遣することになったというわけだ。
景時がなぜ京を目指したのか。それもこの事件の謎である。
鎌倉幕府公式の歴史書とされる『吾妻鏡』では、甲斐源氏の武田有義(たけだありよし)を新たな将軍に擁立しようとした謀反だったという。そのため、九州で兵を募ろうとしていたというのだ。
当時の朝廷での実力者のひとり、土御門通親(つちみかどみちちか)と親交のあった景時は、通親のもとに身を寄せて再起を図ったとする説もある。
いずれにせよ、「(頼家の)一ノ郎党」「鎌倉ノ本体ノ武士」(『愚管抄』)など、幕府における実力者とみなされていた梶原景時の失脚は、単なる「嫌われ者が殺された」ということではない。『愚管抄』には、景時を失ったことは、頼家の最大の失策と記されている。「二代にわたる将軍の寵愛を受け」(『吾妻鏡』)ていた景時の死は、頼家が本当の意味での忠臣を失った瞬間であり、以降に続く壮絶な権力争いの発端にもなったのである。