「比企能員の変」で浮かび上がる北条時政の陰謀
頼朝亡き後の謀反・抗争を巡る謎③
8月14日(日)放送の『鎌倉殿の13人』第31回「諦めの悪い男」は、病に倒れた源頼家(みなもとのよりいえ/金子大地)の跡継ぎをめぐる比企能員(ひきよしかず/佐藤二朗)と北条時政(ほうじょうときまさ/坂東彌十郎)との争いが描かれた。激しさを増していた両者の抗争はついに決着。鎌倉に平穏が訪れるかと思われたが、事態は新たな展開を迎えた。
■鎌倉最大の二派閥の争いが決着

神奈川県鎌倉市にある妙本寺に建つ比企一族の供養塔。この地は比企一族が住まいとしていた場所で、比企ヶ谷と呼ばれる。妙本寺の開基は、事変の際にまだ幼年で京都にいたために命拾いした、比企能員の末子・比企能本と伝わる。
倒れた源頼家の病状は、意識を回復することなく亡くなった父の源頼朝とそっくりだった。頼家の生還は絶望的とみた北条義時(ほうじょうよしとき/小栗旬)ら宿老は、次の鎌倉殿を擁した政治体制を模索し始める。
次の鎌倉殿の最有力候補は、頼家の嫡男である一幡(いちまん/相澤壮太)だが、就任を急ぐ比企能員に対し、義時は慎重に進めるべきと反対する。他の宿老も義時に同意し、当面は事態の推移を見守ることとなった。
義時は、比企氏と北条氏の争いを穏便におさめるため、一幡と、頼家の弟で北条氏の推す千幡(せんまん/嶺岸煌桜)とで鎌倉殿の役目を分割させる提案をする。東国の御家人を一幡に、西国の御家人を千幡に従わせる、という内容だった。一幡の乳母父は比企氏だが、千幡のそれは北条氏だ。能員は、鎌倉殿は一幡一人のみ、と提案を拒否した。
しかし、義時の真の狙いは、比企討伐の大義名分を立てること。能員の反応は義時の思惑通りだった。
義時の父・北条時政は、比企氏に和議を申し入れた上で、能員を北条邸に招いた。肝の据わったところを見せようと丸腰で訪れた能員だったが、待ち構えていたのは武装した北条軍。逃げ場を失った能員は捕らえられて、斬殺された。
ちょうどその頃、畠山重忠(はたけやましげただ/中川大志)や和田義盛(わだよしもり/横田栄司)ら、義時の息のかかった軍勢が比企の館を襲い、一族を殲滅(せんめつ)した。
すべてに決着のついた後、御所では北条政子を中心に新たな鎌倉殿を千幡とする話し合いがもたれていた。ところが、そのさなかに、意識を取り戻すはずのなかった頼家が目覚めたとの知らせが届く。
義時らは愕然として、起き上がっている頼家を見つめたのだった。
『吾妻鏡』以外の書物に書かれた「比企能員の変」の真相
娘・北条政子を嫁がせた源頼朝が初代鎌倉殿となったことで、北条時政は鎌倉政権下で権勢を誇った。
頼朝亡き後の二代目には頼朝の嫡男であり、比企能員が乳母父を務めた源頼家が就任。比企氏は、比企尼(ひきのあま)をはじめ、流人時代から頼朝を支え続けてきた一族だ。さらに次の鎌倉殿に頼家の嫡男であり、比企氏が乳母父を務めていた一幡が就いた場合、比企氏の立場がより強まることは明らか。一方、北条氏の権威はさらに低下することも明白だった。
陰謀の有無は別にしても、梶原景時(かじわらかげとき)の失脚は、北条氏にとって有利な事件。阿野全成(あのぜんじょう)の誅殺(ちゅうさつ)は比企氏に優位に働く事件だ。これらの事件はいわば両氏対立の前哨戦で、ついに直接に対決することになったのが、今回のドラマで描かれた「比企能員の変」だ。
鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡』によれば、能員は病床にあった頼家に直談判して、後々に幕府の災いになるであろう時政を攻め滅ぼす許可を得た。その一部始終をたまたま障子越しに耳にした政子が、能員の目論見を父に知らせた。
時政は、能員が「将軍の舅(しゅうと)であることを背景に恣意的に権力を行使している」として大江広元(おおえひろもと)に相談。明確な同意は得られなかったものの、能員討伐の内諾を取り付けた。
こうして時政は自邸で行なわれる仏像の開眼供養の儀式に能員を招き、丸腰で来た能員を殺害した。
能員が殺されたことを知った従者はすぐさま比企氏の館に戻り報告。一族は臨戦体制を整えた。政子は、これを「謀反である」と認定。その結果、比企氏は滅ぼされた。これが『吾妻鏡』に記された「比企能員の変」の顛末だ。
能員が時政殺しを画策したことが発端とするものだが、そもそも能員が時政を討たなければならない理由が見当たらない。
というのも、まだ幼年だったとはいえ、嫡流である一幡が頼家の跡継ぎになるのはごく自然なことだからだ。おそらく、それに異を唱える御家人はほとんどいなかったはずで、黙っていても絶大な権力が能員の手に転がり込んでくる状況だった。
つまり、順当に行けば、一幡が鎌倉殿になり、能員は将軍の外祖父となって、比企氏の権力の固定化がますます進む。
むしろ、焦りがあったのは北条氏の方だ。不遇にあった頼朝を支え続けた比企氏に比べれば、北条氏と源氏とのつながりは弱い。
こうした状況下で起こった「比企能員の変」とは、能員による事変ではなく、時政によるクーデターだった。そう見る向きは少なくない。
「比企能員の変」について書かれたのは『吾妻鏡』だけではない。天台宗の僧侶である慈円(じえん)が記した『愚管抄』でも事件に触れている。
『愚管抄』では、病で倒れた頼家が一幡に家督を譲る準備を進めた、とある。挽回を期した時政が、能員を暗殺した上で、比企氏の館に軍勢を差し向け一族を葬った、というのだ。ここでは能員の謀反などとはどこにも書かれていない。なお、『愚管抄』の情報源は「比企能員の変」で命を落とした家人の遺族らしい。
また、公家の近衛家実(このえいえざね)の日記『猪隈関白記』によると、時政は「9月1日に頼家が病死したので、頼家の弟である千幡を次の征夷大将軍に任命してほしい」という申し出を朝廷に送っている。
しかし、9月1日時点で頼家は亡くなってはいない。それどころか、この日は時政が能員を暗殺する前日だ。つまり時政は、能員だけでなく、頼家、そして一幡を始末する覚悟を定めた上で、朝廷に申し出ていることになる。
時政謀殺の計画を政子が障子越しに聞いた、というエピソードはどうも不自然だし、『吾妻鏡』は北条氏に都合のよい事情ばかりが書かれているようにも読める。鎌倉幕府の公式記録だからこそ、北条氏に都合の悪いことは隠されており、その記述は真実味に欠ける、と考えることもできる。
いずれにせよ、北条氏は最大の政敵であった比企氏を葬り去ることに成功したことになる。一幡は時政にとってもひ孫にあたるわけだが、血の絆よりも権力の座を選び取ったのは、非情な時代の結論というべきだろうか。