鎌倉北条氏を分断した北条政範の死
頼朝亡き後の謀反・抗争を巡る謎⑥
9月4日(日)放送の『鎌倉殿の13人』第34回「理想の結婚」では、将軍の後見役として、権力をほしいままにする執権・北条時政(ほうじょうときまさ/坂東彌十郎)の姿が描かれた。一方、息子の北条義時(よしとき/小栗旬)のもとに縁談の話が持ち込まれ、北条氏に新たな変化が訪れようとしていた。
■2組の結婚話がもたらす不穏な空気

京都府京都市の東山。『吾妻鏡』によれば、亡くなった北条政範は東山付近に葬られたという。具体的な場所は定かではない。
3代鎌倉殿・源実朝(みなもとのさねとも/柿澤勇人)は、武家の棟梁として鍛錬を積む一方、後鳥羽上皇(尾上松也)の従姉妹との婚姻も決まり、鎌倉政権はますますの安定が図られていた。
その中心となっているのは、鎌倉殿の後見役である執権・北条時政。実朝の婚姻で朝廷と縁つづきになることは、北条氏の権威がより高まると一族も期待を寄せるが、初代鎌倉殿・源頼朝の妻で御台所・北条政子(小池栄子)や、頼朝に長年仕えた御家人であり、時政の息子・北条義時は浮かない表情を見せる。
政子は実朝の今後の身の上を、義時は政権内で強権を振るう父・時政の独断専行ぶりを案じていた。
義時の杞憂は、御家人の一人である畠山重忠(はたけやましげただ/中川大志)からもたらされた知らせではっきりとする。重忠は、時政に一方的に総検校職の解任を言い渡されたという。
総検校職は、重忠ら畠山家が代々任命されてきた重職。武蔵国を我が物とする時政の企てなのではないか、と疑い、義時に密かに相談したのだった。いざとなれば、重忠は一戦も辞さない構えだ。
そんななか、前妻と別れたばかりの義時に再婚話が持ち上がる。相手は二階堂行政(にかいどうゆきまさ/野仲イサオ)の孫で、のえ(菊地凛子)という。気立ても器量もよく、幼い子を持つ義時には申し分のない相手のように思えた。
しかし、義時の嫡男である泰時(やすとき/坂口健太郎)は、父の結婚に猛反発。さらに、ひょんなことから、義時に見せるものとはまったく違う、のえの裏の素顔を見てしまい、泰時は愕然とするのだった。
■嫡男を失った北条時政の暴走が始まる
北条政範(まさのり)は、北条時政と牧の方(ドラマではりく)との間に生まれた嫡男である。政範は、3代将軍・源実朝の妻となる女性を迎えに京都へ赴き、到着からわずか数日後に亡くなった。旅の途中で病にかかったらしい。享年16だった。
鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡』には、「平朝臣政範卒す」と記されている。さらに同書では「父母の悲歎、更に比ぶ可くも無しと云々」つまり、嫡男を失った時政・牧の方の悲しみは他に比べるものがないほどだった、と伝えている。
嫡男・政範を失った北条氏の跡継ぎは誰になるのか。時政の子どもには、前妻との間にできた義時や時連がいるので、彼らが継ぐことになりそうだが、実はそう簡単なことではない。
源頼朝が挙兵した当時、時政には宗時という跡取りの息子がいた。ところが、宗時は挙兵後まもなくに戦死。急遽、時政の後継者となったのが弟の義時だった。
この後、時政は後妻である牧の方との間に男子(政範)をもうけたことにより、事態は複雑になる。ドラマにも描かれたことだが、時政の跡取りとして、義時と政範の2名が並び立つことになったのである。
時政は一時期、政権から離脱したことがある。文治元年(1185)、頼朝の命によって京都守護に任じられた際に、時政は京都の治安維持のために上洛している。ところが、この時に朝廷との間に軋轢を生み、翌年に鎌倉に帰還した後、更迭されたとの見方がある。
時政が所領である伊豆で半ば隠居のような暮らしをしているなか、政権内で頭角を現していったのが義時だった。
義時が政権で重臣としての地位を確立した後に時政は復帰している。義時が「江間氏」を名乗るようになったのは、政権内に北条氏当主が2人もいるのはおかしい、という判断だったのかもしれない。つまり、この時に北条氏は、時政系統と義時系統に分派した。
当然、本家たる時政系統の一番の後継者は、時政と牧の方との間に生まれた嫡男・政範ということになる。
そのため、政範の死去は時政にとって大変な痛手であった。60代後半という高齢で子を失った親としての悲しみはもちろん、後継者が不在となったのは、政権の実権を握る政治家としてのデメリットも大きい。
自身の権力維持を図る時政の策謀は、今後、ますます激しさを増していくことになる。
政範の死を契機とした時政の暴走が激しくなるにつれ、北条氏の結束は不安定なものになっていく。特に、北条政子・義時姉弟は、時政・牧の方夫妻と一定の距離を保っており、その関係は次第に冷え込んでいったものと見られる。
権力をめぐる対立構造は、将軍と御家人、御家人と御家人から、北条氏同士という新たな対立軸を迎えることとなる。