3代実朝暗殺の黒幕は誰だったのか?
鬼滅の戦史95
源頼家(みなもとのよりいえ)が排除された後、3代目将軍職を継いだ実朝。その実朝を暗殺したのが、頼家の子・公暁(くぎょう)だったことは間違いないが、その黒幕については様々な説が存在する。朝幕の思惑が交錯していたこともあり、陰謀が語られることもあるが、どのような背景があったのだろうか?
政子が長男・頼家を見捨てる
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長男・頼家に代わり、北条氏によって据えられた次男・源実朝。『百人一首図絵』田山敬儀筆/国文学研究資料館蔵
源頼朝が亡くなって、その嫡男・頼家が2代目鎌倉殿となったのは、建久10年(1199)のことであった。それから4年、頼家が自らの乳母父を勤めた比企能員(ひきよしかず)一族に加担して、北条氏排除に動いたことで、政子が激怒。頼家は母・政子の手によって、修善寺に幽閉されてしまった。その挙句、時政が差し向けた刺客によって無残な死(睾丸を取られて死んだとも)を遂げたといわれている。
その前年、頼家が急病で危篤状態に陥った時の、政子の行動を振り返ってみよう。なんと、まだ頼家が生きていたにも関わらず、朝廷に対して頼家が死去したとの虚偽の報告をし、弟の実朝(さねとも)が征夷大将軍に任じられるよう仕向けたのである。
このまま頼家の為すがままにしておけば、比企氏の勢力が拡大することは確実。それは同時に、北条氏の権威失墜に繋がる。これを危惧した政子は結局、長男・頼家を見捨てた。そこまでして、北条氏の権威を守ることに意を注いだのであった。
頼家の子・公暁が実朝を殺害
ともあれ、母・政子をはじめ、北条氏の後押しを得たことで、実朝が征夷大将軍に任じられることになった。建仁3(1203)年、実朝12歳の時のことである。もちろん、その十数年後に自身が非業の死を遂げようなど、知る由もなかった。
実朝の身に刃が向けられたのは、建保7(1219)年、深々と雪が降り積もる1月27日の夜のことであった。右大臣任官の祝賀のために鶴岡八幡宮を訪れ、拝礼を終えて退出しようとしていたその刹那、大銀杏(おおいちょう)の陰に隠れていた頼家の子・公暁が飛び出してきたのである。と、同時に、「親の敵はかく討つぞ」と声を張り上げながら実朝に斬りつけた。
実朝は公暁に首を斬り落とされて落命。首は、公暁が持ち去ったという。享年28であった。公暁はその後、源仲章(みなもとのなかあきら)まで殺害したというが、これは『愚管抄』によれば、北条義時と間違えたからともいわれる。義時はその直前、気分が悪くなったため、急遽、剣役を仲章に代ってもらった。それが仇となったと記しているが、果たして真実か? この辺りの真相は、闇の中という他ない。
公暁の乳母父であった三浦義村(みうらよしむら)が、公暁を唆(そそのか)して実朝を殺させたといわれることもある。三浦氏が北条氏に取って代わろうとしたと見るのである。
そればかりか、朝廷との繋がりを強めるなど、次第に実権を行使し始めた実朝に危機感を強めた義時こそが黒幕だったと見る向きも少なくない。
その公暁も、実朝の首を手に、三浦義村の館に向かったものの、義村の配下に斬り殺されている。ここから推察すれば、義村こそが黒幕で、公暁は口封じのために殺されたとみなすのが妥当と思えそうだ。ともあれ、実朝の死によって、3代続いた源氏による将軍職は途絶え、以降、北条氏による執権政治が続くことになるのである。
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実朝を討った公暁。『梅幸百種之内公暁禅師』豊原国周筆/都立中央図書館蔵
義時が恐れた実朝の祟り
では、公暁に切り落とされた実朝の首は、その後どうなったのだろうか? 行方不明になったといわれることもあるが、その実、三浦氏の家臣・武常晴(たけつねはる)が、神奈川県秦野市の大聖山金剛寺に葬ったとも伝えられている。境内にある御首塚がそれだ。
一方、実朝の胴体は、首のないまま、鎌倉の勝長寿院に葬られた(『吾妻鏡』による)という。それでも、今日に至るまで、首と胴体が離れたままというのは、何とも気にかかるのだ。死者を丁重に葬るとすれば、首も胴体も一緒にすべきと思えるからである。
しかし、北条氏にとって、それは「あってはならぬこと」だったに違いない。義時自身が、このクーデターを事前に把握していたと思われるからだ。自らに塁が及ぶことを避けるため、仮病を使って、仲章を犠牲にした可能性が高いのだ。黒幕が北条氏か三浦氏か定かではないが、どちらにしても、実朝の死は北条氏にとって、悪い話ではなかった。
仮に三浦氏が黒幕であったとしても、義時には、三浦氏排除が容易なものと思えていたのではないだろうか。義時にとってみれば、自ら手を下すことなく、実朝排除が実現できたわけである。どちらが黒幕であろうが、実朝さえ死んでくれれば良かった。その後は、自らがお飾りとして征夷大将軍を擁立するだけのこと。そんな思惑があったとも考えられるのだ。
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北条氏の裏仕事に関わることが多い三浦義村。『鎌倉三代記』守川周重筆/都立中央図書館蔵
とすれば、実朝暗殺に義時自身が手を下していなかったとしても、それなりに後ろめたさを感じていたこと自体は不思議ではない。実朝の霊魂が宿るとされる首を、わざわざ義時の拠点である鎌倉に持ち込みたくなかったのだろう。
ただし、政子がそれを知っていたとは思い難い。知っていれば、何としてもクーデターを阻止して、我が子である実朝の暗殺を防いだはずだからだ。確かに、政子は長男・頼家を見捨てた。それでも、次男である実朝まで見捨てるほど大悪女だったとは思い難い。
政子悪女説は、後世の造作によるところが大きい。政子がそこまで極悪人だったとは、考えづらいのである。