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和田義盛と巴御前の間に生まれ、「神のごとき壮力」を誇った朝比奈三郎義秀とは?

鬼滅の戦史92


北条氏に刃向かい、反乱を起こした和田義盛。その子・義秀は、朝比奈三郎の名で知られた剛の者であった。鮫を手掴みで捉えたばかりか、一夜にして峠道を開き、山をも築いたとまでいわれる。いったい、どのような御仁だったのだろうか?


 

和田義盛と巴御前の子という説がある朝比奈義秀。『名将づくし』『子供の遊び』玩具絵より/都立中央図書館蔵       

父・和田義盛を遥かに凌ぐ剛の者

 

 朝比奈三郎(あさひなさぶろう)こと義秀(よしひで)とは、鎌倉殿の御家人として名を馳せた和田義盛(わだよしもり)の三男である。父・義盛も相当剛の者として知られているが、この義秀の勇壮ぶりは天下無双。父を遥かに凌ぐほどのものであった。

 

 ちなみに、父・義盛は、頼朝の旗揚げに大きく貢献したものの、北条義時(よしとき)が執権となって以降は不遇を託(かこ)った。義盛が上総国司の職を望んだものの、北条政子が、将軍・実朝(さねとも)の意を撥(は)ね退(の)けて、これを拒んだことが感情を逆なでした。

 

 すでに、北条氏が中心となって、他の御家人たちを排除する動きが加速していたことも気に食わなかった。「次は我が番か?」との思いもあったのだろう。度重なる北条氏の挑発に耐えかね、ついに挙兵に踏み切ったのである。これは和田合戦と呼ばれる動乱であるが、この戦いにおいて、驚くばかりの戦果をあげたのが、息子・義秀であった。

 

 まず、御所の惣門(そうもん)を打ち破って突入。歯向かう御家人たちを次々と斬り伏せたことが『吾妻鏡』に記されている。その凄まじさが「神のごとき壮力」と称えられたばかりか、「敵する者は死することを免れず」とまで言われて恐れられた。

 

 義時の子・朝時(ともとき)や甥(おい)の足利義氏(よしうじ)らも戦いに臨んでくるが、これも物ともせずに撥ね退けたとまで記しているのだ。

 

 それでも、幕府軍が次々と新手を繰り出してきたことから、和田一族の動きは抑え込まれてしまった。率いる義盛が討ち取られたことで、ついに終焉。一族の多くが討たれたのである。それでも、義秀は、生き残った兵を率いて安房へ逃れたという。

頼朝にも愛された武闘派・和田義盛。『前賢故実』国立国会図書館蔵

3匹の鮫を素手で捕獲

 

 さて、史実として記録された朝比奈義秀像は以上の如くで、それ以上のことはわからない。それでも、この御仁にまつわる伝説伝承は、史実としての活躍ぶりを遥かに凌ぐ、驚くべき話へと変容して伝わっているのだ。

 

 例えば、将軍・頼家を前にして、泳ぎの腕前を披露した時の逸話を見てみよう。義秀は泳ぎの達人としても知られていたが、頼家から腕前を見せてみろと声をかけられた際に、海中深く潜り込んだと思うや否や、何と3匹の鮫を両手に抱えたまま浮上。御船に向かって、高々と掲げたというから恐れ入る。

 

 実はこの話は、先ほどの和田合戦と同様に、鎌倉幕府の公式記録ともいうべき『吾妻鏡』に記されたものである。それゆえ、全くのデタラメとは思い難いのだ。話半分としても、それに近しいことを義秀が難なくやり遂げていたとみなすべきだろう。しかも、記録したのは、事実上の権力者であった北条氏である。自らが滅ぼした和田氏の御曹司をなぜここまで持ち上げる必要があるのか、奇妙という他ない。穿った見方をすれば、一族を滅ぼしたことに対する、せめてもの罪滅ぼしなのだろうか?

源頼家の命で鮫を海中から抱えてみせた朝比奈義秀。『少年日本歴史読本. 第拾參編』(博文館)/国立国会図書館蔵

7つの山をも作った?

 

 それはともあれ、さらに驚かされる伝説がある。鎌倉に伝わる朝比奈切通しにまつわる話である。鎌倉と金沢六浦(むつうら)を結ぶ峠道であるが、これを作ったのが義秀だというのだ。幅4m、高さ3〜10m、長さ800m以上という切り立った道である。いったいどういう手段を用いたのか推し量りようもないが、それを一夜にして切り開いたというから、驚くばかり。実際には、1240年に執権北条泰時(やすとき)が、難工事の末に完成させたもの。誰がそんな風に言い広めたのかは謎である。

 

 また、宮城県黒川郡大和町に伝わる朝比奈三郎伝説も凄い。ここでは、三郎はウルトラマンも顔負けの巨人として語られているのだ。何でも、鹿島台というところから土を籠(かご)に入れて運び、それを7回繰り返したという。その土をドサっと置いたところ、七ツ森という山々になったというからビックリ! 豪傑もここまでくれば、もはや天地創造の神の領域である。

 

 ちなみに、義秀がどこで亡くなったのかは、定かではない。その墓が和田氏の領地であった安房の地というのなら理解できるが、群馬県長野原町に墓があるというから、何とも不思議。実は和田合戦の後、その地の応桑というところに逃れて住んだとの言い伝えがあるのだ。

 

 また、熊野灘に面した和歌山県太地町(たいじちょう)に住み着いたともいわれることもある。同地は、古式捕鯨(ほげい)発祥の地として知られるところである。和田忠兵衛頼なる武士の末裔が、この地で捕鯨を行ったのが始まりとか。慶長11(1606)年というから、義秀の時代から4世紀も後のことである。地元の伝承によれば、義秀がこの地に逃れ住んだのが始まりとも。前述した、義秀が鮫を素手で捕まえたとの逸話との関連が気になるお話である。

 

 ちなみに、史実として義秀の母が誰であったかは不明。それでも、源義仲(よしなか)の妾(めかけ)として知られた巴御前(ともえごぜん)だったとの伝承が興味深い。巴御前とは、いうまでもなく大力と強弓の達人として知られる傑女である。宇治川の戦いにおいて義経に敗れて敗走。その後、和田義盛に請われて夫婦になったと言われる女性だ。その二人の間に生まれたのが義秀だったというが、果たして? いったい、どこまで信じて良いのだろうか…。

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藤井勝彦ふじい かつひこ

1955年大阪生まれ。歴史紀行作家・写真家。『日本神話の迷宮』『日本神話の謎を歩く』(天夢人)、『邪馬台国』『三国志合戰事典』『図解三国志』『図解ダーティヒロイン』(新紀元社)、『神々が宿る絶景100』(宝島社)、『写真で見る三国志』『世界遺産 富士山を行く!』『世界の国ぐに ビジュアル事典』(メイツ出版)、『中国の世界遺産』(JTBパブリッシング)など、日本および中国の古代史関連等の書籍を多数出版している。

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