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北条義時の突然死の陰で囁かれる継室・伊賀の方による毒殺説

鬼滅の戦史93


2代執権となった北条義時が、正妻・姫の前を離縁した後、継室として迎え入れたのが、関東の有力豪族の娘・伊賀の方であった。伊賀の方はその後、我が子・政村を執権とするよう画策。そればかりか、夫・義時まで毒殺したといわれることもある。それはどういった理由によるのだろうか?


 

北条義時夫妻の墓がある北條寺。義時の妻の墓石には伊賀守藤原朝光娘と銘が彫られており、妻と二人並んで葬られている。

夫に実家を滅ぼされた正室・姫の前の無念

 

 大河ドラマ『鎌倉殿の13人』における北条義時(ほうじょうよしとき)の妻といえば、新垣結衣さんが演じた八重姫(やえひめ)が何といってもよく知られるところである。その実体は、正室であった姫の前と、側室・阿波局(あわのつぼね)をミックスして創作された人物像であることも、よく知られるところだ。

 

 ただし、ここでは史実としての義時の妻のことについて見ていくことにしたい。義時には、4人の妻がいたことが知られている。正妻の姫の前と、継室(けいしつ)としての伊賀の方に加え、義時にとって最初の子・泰時(やすとき)を産んだ阿波局と、藤原北家とも繋がりのある伊佐朝政の娘という二人の側室がいた。

 

 このうち、今回紹介するのが、正室・姫の前と継室・伊賀の方である。

 

 まず、正室であった姫の前から。比企尼(ひきのあま)の子・比企朝宗(ともむね)の娘で、頼朝の御所に女官として仕えていた時に義時が見初め、1年余りも恋文を送り続けてようやく妻となった女性だといわれる。劇中で堀田真由さんが演じた比奈だ。義時と夫婦になることを渋る彼女に、わざわざ頼朝が仲介役を買って出たこともよく知られている。頼朝が義時に対して、「離縁しない」という起請文を書かせたことで、ようやく納得させることができたとか。ともあれ、義時にとっては待ちに待って迎え入れた女性であった。

 

 ところが、この起請文は、実際には役に立たなかった。それは、彼女の実家である比企一族が謀反を企てたとして、夫である義時が兵を率いて滅ぼしてしまった(比企能員の変)からだ。夫が妻の実家に兵を送り込んだのだから、妻として我慢できるものでなかったに違いない。もちろん、二人が離縁したことはいうまでもない。

 

伊賀氏の変では、のえが息子・北条政村を執権の地位に昇らせるよう計ったとされる。(国文学研究資料館蔵

後妻の伊賀の方が義時を毒殺?

 

 その継室、つまりその後釜として妻となったのが、藤原秀郷(ふじわらのひでさと)に系譜が繋がるという関東の豪族・伊賀朝光(いがともみつ)の娘・伊賀の方であった。

 

 朝光の妻は、「13人の合議制」の一人であった二階堂行政(にかいどうゆきまさ)の娘というから、有力御家人との縁談ともいえそうだ。それが北条義時3人目の妻となる、菊地凛子さんが演じる「のえ」(伊賀の方)だ。

 

 彼女は、婚姻から2年後の元久2年(1205)に政村を、さらに承元2年(1208)に実泰を出産。それ以外にも一男一女をもうけているところから鑑みれば、この夫婦、それなりに仲睦まじかったに違いない。

 

 ところが、それに異を唱えるような記録が残されている。

 

 義時が亡くなったのは1224年のことであるが、その死が突然であったことから、様々な憶測が飛び交ったことはご承知の通り。その際たるものが、妻である伊賀の方が、夫・義時を毒殺したというものであった。それが記されていたのが、藤原定家が著した『明月記』。そこに、義時の妻、つまり伊賀の方が義時を毒殺したかのような文面が記されていたのだ。

 

 承久の乱の首謀者の一人とされる延暦寺の僧・尊長(そんちょう)、彼が六波羅探題(ろくはらたんだい)で厳しい尋問を受けた時のことである。苦痛に耐えかねて、つい、「義朝に妻が飲ませた薬で俺も殺せ!」と、あたかも義時の妻が夫を毒殺したかのように吐き捨てたというのだ。

 

 その真偽は定かではないものの、義時の死の直後、伊賀の方が兄・伊賀光宗(みつむね)と共謀して、我が子・政村(まさむら)を執権の地位に昇らせるよう計った(伊賀氏の変)と暴露されているのが気にかかる。謀反発覚後、伊賀の方は伊豆国に配流。それから程なく亡くなったというが、この一連の流れを鑑みると、伊賀の方が謀反に加担して夫を殺害したという経緯も、それなりに説明がつくのである。

 

政子が伊賀の方の謀反をでっち上げた?

 

 ただしこの事件、実は政子が伊賀の方を陥れるために仕組んだもの、と見なされることがあることも付け加えておきたい。

 

 伊賀の方の実家である伊賀氏の台頭を恐れたからだという。ただし、伊賀の方に押しのけられようとしていたはずの義時の長男・泰時自身が、意外にも伊賀の方の謀反を否定しているというのが、何とも奇妙。この辺り、謎めいていて定かなことは言えないが、政子が自らの影響力の低下を恐れて、伊賀の方の謀反をでっち上げたとみなすほうが自然なのかもしれない。

 

 ともあれ、政子のでっち上げが事実とすれば、伊賀の方は濡れ衣を着せられたまま死んでいったわけで、深い恨みを持っていたことは間違いない。

 

 もちろん、化けて出たとしても不思議ではない。彼女の怨霊を目にしたのが、政子ばかりか、御所に仕える女房たちであったというから、女房たちも、事前に政子の動きを察知していたのだろう。

 

 ただし、政子は烈女と呼ばれるほど気丈夫な女性だっただけに、怨霊ごときに、表立って弱音を吐くことはなかった。それでも密かに祈祷していたといわれるから、心の奥底では怯えていたに違いない。

 

 ちなみに、伊豆の国市の北條寺には、北条義時夫妻の墓がある。二人が仲良く並んで葬られているのが印象的だ。この光景だけをみれば、伊賀の方が義時を殺したなど、とても思えそうにない。この辺り、何とも謎としか言いようがないのである。

 

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藤井勝彦ふじい かつひこ

1955年大阪生まれ。歴史紀行作家・写真家。『日本神話の迷宮』『日本神話の謎を歩く』(天夢人)、『邪馬台国』『三国志合戰事典』『図解三国志』『図解ダーティヒロイン』(新紀元社)、『神々が宿る絶景100』(宝島社)、『写真で見る三国志』『世界遺産 富士山を行く!』『世界の国ぐに ビジュアル事典』(メイツ出版)、『中国の世界遺産』(JTBパブリッシング)など、日本および中国の古代史関連等の書籍を多数出版している。

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