和田義盛と一族の滅亡にまつわる伝承とは?
鬼滅の戦史94
安房へと逃げ延びて再起を図ろうとする頼朝に向かって、「天下を取った暁には、俺を侍大将にしてくれ!」と強引にねじ込んだ和田義盛(わだよしもり)。頼朝は、その約束を守って、彼を侍所(さむらいどころ)別当に任じた。しかし頼朝の死後、状況が一変。北条氏が権力を独占するかのような動きに我慢ならず、ついに反旗を翻してしまったのである。結局、和田一族は滅亡。その後、御所内で怪異現象が頻発したが、それはまるで和田一族が祟りをなしているかのようでもあった。
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歴史書には、おっちょこちょいであったという記述もある和田左エ門尉義盛。『源平英雄競』一寿斎芳員筆/国立国会図書館蔵
約束通り義盛を侍大将に
和田義盛といえば、源頼朝の旗揚げに参画して、その政権獲得に貢献した有力御家人の一人である。大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、恰幅の良い横田栄司さんが見事に演じきっているが、髭面の猛々(たけだけ)しい風貌ながらも、どこか憎めないお茶目な雰囲気が印象的である。
ともあれ、ここからは、史実としての和田義盛に思いを馳せてみたい。
義盛の人物像を探る上で欠かせないのが、石橋山の戦いに敗れて安房へと逃げてきた頼朝を出迎えた際の逸話である。そこで再起を図ろうとする頼朝に対して、義盛が「天下を取った暁には、俺を侍大将にしてくれ!」と直訴したのである。義盛らしいというべきか。敗走を続ける中でのこの夢物語、周りは皆、ただの景気付けと思ったかもしれないが、彼だけは本気であった。
その後、頼朝は続々と兵を集めて鎌倉入りを果たすことになるが、ここで目を見張るようなことが起きた。頼朝が、誰もがすっかり忘れていた安房での約束を実行に移したからだ。「瓢箪(ひょうたん)から出た駒」というべきか、それを本気にしていたわけだから、皆が目を丸くしたに違いない。軍事、警察を担う侍所の頂点ともいうべき侍所別当、義盛が願うところのいわゆる「侍大将」に任じたのである。治承4(1180)年11月17日のことであった。
もちろん、義盛が、2万もの大軍を擁する上総広常(かずさひろつね)を味方に引き入れることに、使者として尽力したことはあったが、果たしてそれが彼の功績と呼べるものであったかどうか。
むしろ、上総広常と力を合わせて、頼朝に従おうとしなかった常陸国の強豪・佐竹秀義(さたけひでよし)を生け捕りにして凱旋したことが評されたと見るべきかもしれない。
それでも、大江広元(おおえのひろもと)や千葉常胤(ちばつねたね)、梶原景勝など、有力御家人がひしめく中にあっては、特段、義盛だけが華々しい活躍ぶりを見せつけたわけではなかったはずだ。それにもかかわらず、頼朝はこの約束を守ったのである。それが、御家人たちを惹きつけるための、頼朝なりの方策だったのかもしれない。
その後、範頼(のりより)軍の軍奉行として平家軍と対峙。壇ノ浦では、海上で戦う義経軍を、陸上から支援している。三町(約327m)余りもの距離をものともせず遠矢を放って、平家軍を驚かせたことも、『平家物語』に記されている。
さらに、奥州藤原氏との奥州合戦(1189年)にも従軍。建久元(1190)年の頼朝上洛時には、義盛が先陣を賜ったばかりか、北条義時(ほうじょうよしとき)や比企能員(ひきよしかず)らとともに、右近衛大将拝賀の隋兵7人のひとりにも選ばれるという栄誉にも浴した。この頃までの義盛は、まさに得意絶頂というべきものだったに違いない。
一族をあげて挙兵するも…
ところが、頼朝が亡くなって頼家が2代将軍となった頃から、状況がおかしくなってきた。13人の合議制の一員となったものの、梶原景時(かじわらかげとき)や比企能員、畠山重忠(はたけやましげただ)、北条時政(ほうじょうときまさ)などの有力御家人が次々と失脚していったからである。
北条義時が2代執権に就任すると、義時の独断専行が加速していくようになる。これに反感を覚えた清和源氏の流れを汲む泉親衡(いずみちかひら)が、頼家の遺児を擁立して北条氏の打倒を目指し始めると、義盛の甥や子までもがこれに同調してしまった。
その挙句、義盛の助命嘆願も虚しく、首謀者とされた甥の胤長が流された上に所領まで没収され、結局処刑されるに及んで、ついに義盛の堪忍袋が破れた。義盛は一族をあげて、挙兵に踏み切ったのである。
しかし、同調してくれると信じていた同族の三浦義村(みうらよしむら)が北条氏に加担。義盛謀反を義時に通報したことで、万事休す。義盛は子らとともに、討ち取られてしまったのだ。享年67であった。合戦の舞台となった由比ヶ浜、そこから500mほど北の江ノ電和田駅のすぐ側にある和田塚が、和田一族の墓だと見られている。
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江ノ電和田駅のすぐ側にある和田一族の墓。
和田一族の怨霊の仕業か?
義盛が討ち取られたことで、北条義時は義盛に代わって侍所別当をも兼任。政所別当と合わせたことで、幕府の実権を完全に掌握したのである。今度は義時が、自身の全盛期が訪れたと、気を良くしたに違いない。
ところが、これで鎌倉が平穏になるとの義時の思いは、打ち砕かれることになる。『吾妻鏡』によれば、それ以降、怪異現象が御所内で次々と起きたからである。
まず、6月29日に光る物体が現れた。これを皮切りとして、8月18日の丑の刻(午前1〜3時頃)にも、若い女が御所の前庭を横切ったかと思うや否や、またもや光る物体が現れたという。この奇妙な現象を悪霊のなせるものとして、後日、鶴岡八幡宮で百怪祭なる魔除けの呪法を執り行ったようである。
しかし、その効もなく、翌日のまたもや丑の刻に、大地震が起きた。祟りによるものとすれば、その直前に和田一族が滅ぼされたこと、それによるものとしか考えられ難いのだ。
その真偽はともあれ、もうひとつ、静岡県南伊豆町に伝わる伝承も気になるところ。
ここでは義盛は戦いに敗れたものの、南伊豆の青市というところまで逃げ延びて余生を送ったと言い伝えられている。庄屋の娘と結ばれて、子まで成したと言われることもあり、和田の谷(南伊豆町湊)にある、和田塚が義盛の墓だといわれているようである。
高知県土佐町にも、同名の和田の谷があるが、こちらは義盛の四男・義直が追手から逃れて逃げ延びた場所ということである。