北条氏分裂を決定づけた「畠山重忠の乱」
頼朝亡き後の謀反・抗争を巡る謎⑦
9月18日(日)放送の『鎌倉殿の13人』第36回「武士の鑑」では、執権・北条時政(ほうじょうときまさ/坂東彌十郎)と御家人・畠山重忠(はたけやましげただ/中川大志)の対決が描かれた。自身の父と友人が対立するという、双方の板挟みとなった北条義時(小栗旬)は、非情な決断を迫られることになる。

神奈川県横浜市にある「畠山重忠公終焉の地」の碑。周辺には重忠の首を祀った首塚や、首洗いの井戸、重忠の敗死を知って自害した妻が駕籠ごと埋葬されたという駕籠塚など、関連する史跡が点在している。
御家人たちの不評を買った誅殺
3代目鎌倉殿・源実朝(みなもとのさねとも/柿澤勇人)の下文を入手した執権・北条時政は、畠山重忠討伐に動き出す。
実朝以下、多くの御家人が重忠の謀反に疑念を覚えるなか、重忠の友人で時政の子・北条義時(よしとき/小栗旬)は自ら総大将に志願。最後まで停戦の望みを捨てない覚悟で、戦場へ向かった。
義時は、投降を促す使者として和田義盛(わだよしもり/横田栄司)を重忠の陣に派遣。長年の戦友として説得を試みるも、重忠の固い意思を目の当たりにした義盛は、正々堂々と戦い合うことを誓った。
こうして始まった合戦は、圧倒的な兵力差がありながらも畠山軍が善戦。重忠は義時を一騎打ちに持ち込み、壮絶な殴り合いとなった。その結果、義時は倒されたが、合戦は鎌倉軍の勝利。重忠の首は御所に届けられた。
ところが、御家人たちは重忠の無実を信じる者がほとんど。重忠の死は、時政に対する不信感を増幅させることとなった。
御家人たちの杞憂(きゆう)を根拠に、義時は時政に与えられた執権の権限を剥奪。当面、尼御台(あまみだい)である姉・北条政子(まさこ/小池栄子)を将軍の後見とし、鎌倉の政務を立て直すことにした。
半ば謹慎状態となった時政は、息子の見事な謀略に舌を巻きながら、逆襲の機会をうかがうのだった。
恨みによって命を落とした「武士の鑑」
鎌倉幕府の公式記録とされる『吾妻鏡』によれば、畠山重忠の軍勢はわずか134騎だった。対する鎌倉軍は「前後の軍兵、雲霞の如く兮、山に列し野に滿る」(『吾妻鏡』)状況で、数千騎とも数万騎ともいわれている。いずれにせよ、兵力差は歴然としたものだった。
重忠の側近である榛澤成清(はんざわなりきよ)は、いったん本拠に退いて軍勢を整えての防戦を訴えたが、重忠はこれを却下。退却することは、しばしの命を惜しんだり、陰謀を企んだりするように見えて卑怯だ、と述べ、最後の最後まで誇り高く戦うことを告げたという。梶原景時(かじわらかげとき)の最期を例に出しており、逃げるところを討たれるのを何よりも恐れたようだ。“坂東武者の鑑”といわれる所以だろう。
圧倒的な兵力差にもかかわらず、合戦は4時間におよんだ。最終的に、愛甲季隆(あいこうすえたか)の放った矢に当たって重忠は死んだ。それを見た部下たちが自害をして、合戦は終わりを迎えたという。
以上は『吾妻鏡』の描写だが、天台宗の名僧・慈円(じえん)の記した歴史書『愚管抄』によれば、坂東武者の鑑として尊敬を集めていた重忠を討とうと近づく者がほとんどいなかったので、重忠はやむなく自害した、とされている。
騒動の発端となったのは、時政の娘婿である平賀朝雅(ひらがともまさ)が、時政の妻・牧の方(ドラマではりく)に、重忠の息子である畠山重保(しげやす)と口論になったのを報告したことである。
口論といっても、二人が何を言い争ったのかは定かではない。一説によれば、京へ向かう途中、時政と牧の方の愛息である北条政範(まさのり)が病に倒れ、その治療方針で二人は対立したらしい。
京についてまもなく政範は死去。口論はその後に行われた酒宴で起こったようだから、京への道中での衝突が起因しているのかもしれないし、あるいはドラマで描かれたように朝雅が政範を毒殺した疑いがあり、それを突きつけた結果だったのかもしれない。
いずれにせよ、重保に恨みのあった朝雅が、牧の方に「畠山氏に謀反の疑いあり」と告げ口をしたことで畠山氏討伐に発展した、というのが通説である。
恨みという点でいえば、この事件の裏には三浦義村(みうらよしむら)の謀略も絡んでいるとの説もある。
重忠は、源頼朝が挙兵した当初、敵方の平氏の陣営に属しており、この時に三浦氏と合戦におよんでいる。義村や和田義盛の祖父に当たる三浦義明(よしあき)は、この合戦で重忠に攻められ、城を枕に討死した。
重忠が頼朝の傘下に降った際に、頼朝は祖父の怨恨を水に流すよう三浦氏を自ら説得したというが、実はこの時の恨みを義村たちは忘れていなかったのだという。
無実の重忠を討ったということが分かると、時政の立場が危うくなる。そこで時政は、重忠と同じく娘婿である稲毛重成にすべての罪を押し付けて誅殺した。この計略の発案は時政でも義時でも、ましてや大江広元(おおえひろもと)でもなく、義村だったらしい。『吾妻鏡』にそのような記述が見られるが、真相は分からない。
いずれにせよ、畠山重忠の乱は、北条氏の内部に決定的な亀裂を生じさせる契機となった。
鎮圧後に義時は「讒訴に依て、誅戮に逢う歟。太だ以て不便」(『吾妻鏡』)すなわち、重忠の謀反は事実無根のことであり、無実の彼を討ったことは非常に気の毒だ、と時政に公然と抗議している。
義時に強く非難された時政は、言葉もなくその場を立ち去ったという。
鎌倉幕府の権力をめぐる抗争は、いよいよ佳境を迎えることとなる。