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謎が謎を呼ぶ「泉親衡の乱」とその後

頼朝亡き後の謀反・抗争を巡る謎⑨


10月23日(日)放送の『鎌倉殿の13人』第40回「罠と罠」では、御家人たちの信望を集める和田義盛(わだよしもり/横田栄司)に警戒心を強める北条義時(ほうじょうよしとき/小栗旬)の様子が描かれた。義時の嫡男である北条泰時(やすとき/坂口健太郎)や姉の北条政子(まさこ/小池栄子)は、和田潰しにのめり込む義時を何とか止めようと奔走する。


 

鎌倉最長老の御家人・和田義盛と北条義時の確執

 

神奈川県横浜市にある「泉中央公園」。泉親衡の居館があった場所といわれている。園内には、親衡が馬を洗ったという池が残されている。

 

 京の後鳥羽上皇(ごとばじょうこう/尾上松也)は、火災に遭った内裏(だいり)の修復を鎌倉に命じた。鎌倉幕府の実権を握る北条義時に揺さぶりをかけるためだ。

 

 上皇の命とはいえ、遠く離れた建物の修繕に駆り出されることに、坂東武者たちは猛反発。和田義盛の館に集まって、不満の声をぶつけていた。不平を抱く御家人たちの旗頭(はたがしら)となりつつある義盛に、義時は警戒心を抱く。

 

 そんな折、義時の命を狙った謀反が発覚する。首謀者は信濃国の武士である泉親衡(いずみちかひら)。しかし、親衡は御家人たちを焚き付けるだけ焚き付けて、そのまま姿をくらましてしまう。

 

 問題は、謀反計画に加担した者のうちに、義盛の身内がいたこと。義時はこれを好機として、和田潰しに乗り出す。

 

 事態を重く見た3代鎌倉殿・源実朝(みなもとのさねとも/柿澤勇人)は、義時と義盛の仲裁に乗り出す。引くに引けないところまできていた両者だったが、鎌倉殿直々の仲裁とあっては、耳を貸さないわけにはいかない。こうして2人は矛を収めることになったが、義時の心中は複雑だった。

 

 ちょうどその頃、和田の館では、戻りの遅い義盛を案じた一族がいきり立っていた。義時の罠に陥れられたのだと騒ぎ立て、彼らはついに挙兵してしまう。

 

義時の陰謀説もささやかれる謀反未遂事件

 

「泉親衡の乱」は、建暦3年(12132月に発覚した謀反未遂事件。

 

 発端は、信濃国(現在の長野県)からやってきた安念という僧侶が、鎌倉の御家人である千葉成胤(ちばなりたね)に幕府への反乱を持ちかけたことだ。

 

 安念によれば、信濃国の御家人である泉親衡が、2代鎌倉殿の源頼家(みなもとのよりいえ)の遺児・千寿丸を擁して挙兵するという。

 

 驚いた成胤は、その場で安念を捕縛。義時に引き渡した。

 

 その後、安念の自白により、計画の全貌が明らかとなった。親衡の呼びかけに応じた者は約130人。その家来が200人というから、300人以上が親衡の陰謀に協力を表明していたことになる。その多くが信濃国の武士だったことから、かつて同国を支配していた比企(ひき)氏の残党が企てた陰謀とする説もある。

 

 安念が自白した中に、幕府の宿老・和田義盛の子である義直(よしなお)と義重(よししげ)、甥の胤長(たねなが)の名前も含まれていたことから、事態が複雑になった。

 

 そもそも首謀者の泉親衡とは何者なのか。

 

 通説では、泉親衡は信濃源氏・泉公衡(いずみきみひら)の子とされる。源経基(つねもと)の子・満快(みつよし)の子孫といわれており、これが事実であれば、清和源氏の一流となる。本拠は上田盆地の小泉庄(現在の長野県上田市)。

 

 源氏の嫡流とはいえ、鎌倉幕府を創設した源頼朝に比べれば、反乱軍を率いるほどの名門とは到底言えない。そこで思いついたのが、頼朝の孫であり、頼家の遺児である千寿丸の擁立だったようだ。

 

 実は、泉親衡についての情報は、これら以外にほとんど見当たらない。謀反計画の発覚後、義時は親衡の捕縛を命じたが逃げられてしまい、そのまま行方知れずとなったからだ。ドラマの中では源仲章が親衡の正体として描かれている。

 

 事件としての「泉親衡の乱」も、実に謎が多い。

 

 親衡を信濃源氏の系統とするのは、室町時代に完成したといわれる系図集『尊卑分脈』(そんぴぶんみゃく)によるものだが、それを裏付ける資料がない。

 

 親衡の名も、この反乱事件以外で見ることはほとんどなく、実像はまったく分からない。そのような人物が、300人もの武士を集めることが果たして可能だろうか。

 

 奇妙なのは、幕府が積極的に親衡探索を行なった様子がうかがえないことだ。幕府の最重要人物である、義時が標的だったのにもかかわらず、主犯の親衡を取り逃がしたまま、それ以上追手を放つことをしていない。親衡はそのまま、まんまと逃げおおせている。

 

 また、親衡が擁立しようとした頼家の遺児とは誰かが、実は定かではない。というのも、鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡』には、「故左衛門督殿の若君」とあるだけで、名前は記されていない。確かに千寿丸は頼家の遺児ではあるが、あえて名を伏せる意図が何なのか、分からない。

 

 いずれにせよ、義盛の嘆願によって2人の子は助けられたが、積極的に謀反に加担したと見られる甥は罰せられた。これは源実朝の判断によるものとされ、事件の幕引きとして妥当なものといえるだろう。

 

 ところが、義盛は納得できなかった。子の義直と義重が赦免された翌日に、義盛は一族98人を引き連れて甥の胤長の赦免を嘆願している。それにもかかわらず、将軍への謁見はかなわず、甥に対する処罰も覆らないとあっては、メンツを潰された、と思い込んでも仕方がない。

 

こうして、事態は「泉親衡の乱」をきっかけに、「和田合戦」へとなだれ込んでいく。

 

 結果として、一連の和田潰しを画策していた義時の思い通りになったことから、乱自体が義時の陰謀ではないか、という見方もある。

 

 なお、親衡は逃走後も生き延び、「清海」と名を変えて出家したという言い伝えが残っている。伝説の残る最明寺(埼玉県川越市)の縁起によれば、「清海」は88歳まで生きたという。

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過去記事

小野 雅彦おの まさひこ

秋田県出身。戦国時代や幕末など、日本史にまつわる記事を中心に雑誌やムックなどで執筆。著書に『なぜ家康の家臣団は最強組織になったのか 徳川幕府に学ぶ絶対勝てる組織論』(竹書房新書)、執筆協力『キッズペディア 歴史館』(小学館/2020)などがある。

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