和田義盛の息子と甥が関与した「泉親衡の乱」
鎌倉殿の「大粛清」劇⑰
「上総介」の肩書を求めて燃え上がる義時への対抗心

建暦3年2月15日、泉親衡は源頼家の遺児・千寿丸を鎌倉殿に擁立して北条家を打倒しようとし、千葉成胤のもとに安念法師を派遣して挙兵への協力を求めた。国立国会図書館蔵
ある者は粛清され、またある者は老衰のために亡くなり、いまだ健在な御家人も一握りしかいなくなった。
北条一門を除けば、独断で大兵を動かせるのはもはや和田義盛(わだよしもり)と三浦義村(みうらよしむら)くらいしかおらず、義村が北条政子に忠実であることから、北条義時に対抗心を隠さずにいる大物御家人も、和田義盛一人だけとなった。
義盛の役職は侍所(さむらいどころ)の別当(べっとう)。外敵こそいなくなったが、些細なことから御家人の郎等(ろうどう)同士の私闘が起きたときなど、義盛が直接出向かないことには場を治めることができず、義時とはまた別の意味で、実朝から頼りにされていた。
義盛には16歳年下の義時(よしとき)が相模守、弟の時房(ときふさ)が武蔵守に補任されたのを黙っておれず、実朝に対して非公式ながら自分を上総介(かずさのすけ)にしてくれるよう陳情を重ねた。義盛の当初の根拠地は三浦半島にあったが、この頃には上総国伊北(いほう)荘に居住し、その周辺一帯を新たな本拠地としていた。
上総国は親王が名義上の国司を務める国であるため、次官の介が事実上の国司で、年齢的な点を考慮すれば、義盛には上総介就任を花道として、隠居を考えていた節がある。
実朝としては義盛の長年の働きに報いるため、また北条氏と和田氏のバランスを取るためにも願いを聞き入れてやりたかったが、母の政子に相談したところ、御家人の国司・知行国主への任命を止めた頼朝時代の先例を持ち出された。母に逆らうこともできなければ先例に背くわけにもできず、そうかと言って義盛を落胆させることも忍びないため、実朝は義盛にはしばらく決定を待つよう告げ、結論を先延ばしするしかなかった。
だが、それがかえって厄介を増やす結果となった。後鳥羽院から近臣の藤原秀康(ひでやす)を上総介にとの強い要請があったらしく、後鳥羽院との協調路線を歩む実朝としてはそれを拒むことはできなかった。
承元4年(1210)6月下旬、秀康の目代(もくだい)が上総国に下ってからというもの、何事につけ先例に背き、違法行為も働くので、在庁官人や在地の武士らとの間で争いが頻発したが、義時ら政所の面々は、訴え事があるなら京都の朝廷へと命じるだけで、我関せずの姿勢を貫いた。
その後も一向に埒(らち)が明かないことから、建暦元年(1211)12月20日、義盛は子息の義直(よしなお)を通じ、嘆願書を取り下げた。
謀反の計画が発覚し、和田一族が逮捕者の中に
嘆願書の取り下げは怒りからか、それとも失望からか。義盛がどちらの心境にあったかは不明ながら、それからしばらく義盛には目立った言動が一切見られず、それは北条義時にしても同様だった。
『吾妻鏡』によれば、束の間の平穏が破られたのは建暦3年2月15日のこと。世に言う「泉親衡(いずみちかひら)の乱」の発覚である。
千葉成胤(なりたね)により捕らえられた安念という法師の自供から、亡くなった源頼家の遺児を擁し、北条義時を殺害する謀反の計画が一昨年から練られていたという。
首謀者の泉親衡個人については、極めて情報が少ないが、安念などの自供から、張本(首謀者)が130余人、伴類は200人に及ぶことが明らかにされ、謀反に関与したとして生け捕りにされた者の中には信濃や木曽の武士、上総介広常の甥などに加え、和田義盛の子息義直と義重(よししげ)、甥(おい)の胤長(たねなが)の姿も含まれていた。
事態を重く見た義盛は鎌倉へ急ぎ出向き、実朝と対面した。義盛に負い目を感じている源実朝にしてみれば、借りを返す絶好の機会で、誰にも相談することなく、義直と義重を赦免したが、計画の中心にいた胤長だけは、どうにもならなかった。
監修・文/島崎晋