政子との二頭政治を経て誕生した執権・北条義時
鎌倉殿の「大粛清」劇⑯
3代将軍実朝を二人三脚で支えた政子と義時

明治期の浮世絵で描かれた北条義時(右)。義時は相模守であり、牧氏事件で時政が失脚すると、8月9日の臨時除目で叙爵し、守に任じられた。北条氏は兄弟で幕府の枢要国である武蔵・相模の国務を掌握した。都立中央図書館蔵
元久2年(1205)閏(うるう)7月19日と20日に起きた出来事について、鎌倉時代末に幕府の役人により編纂されたとされる『鎌倉年代記』に加筆された裏書には、『愚管抄』より過激な内容が記されている。
「北条時政の陰謀が露見すると、源実朝は北条義時の屋敷に逃げ込み、義時と政子が相談して、時政を伊豆国の修禅寺に押し籠めた」
なんと時政に対し、源頼家に対したのと同じ手段が採られたというのである。これでは政子と義時による政権簒奪(さんだつ)と呼ばれても仕方がない。
事実関係がどうあれ、実の父親を追放した義時が間を置かずその後釜に座るのは、さすがに具合が悪かった。『吾妻鏡』の同年7月20日条には、「相州(そうしゅう/北条義時)が執権の事を承られた」とあるが、これは十中八九、虚構であろう。
現存する同時代の古文書から見る限り、義時が政所別当となったのは承元3年(1209)の7月から12月までの間。それ以前の公職にない時期とて幕政から離れていたわけではなく、源実朝の生母にして後見役でもある政子と二人三脚の歩みを続けていた。この時の幕政は、政子と義時による二頭政治と言ってもよい。
二頭政治が容認されたのは、まだ実朝が年齢と官位の2点で要件を満たせず、正式な政所(まんどころ)設置と政所下文(まんどころくだしぶみ)の発給ができなかったからである。
そのため承元3年4月10日、18歳となった源実朝(さねとも)が朝廷から従三位に叙せられ、正式な政所の設置と政所下文の発給を始めてからは事情が変わる。後見人がお役御免となれば、生母である政子はともかく、義時が引き続き幕政の中心に留まるには、それなりの役職に就く必要があった。時政追放から歳月を経て、もはや誰も抵抗はなかろうというので、政所別当に就任したのではなかろうか。
政所の別当は長らく大江広元(ひろもと)と北条時政の2名体制が続き、時政の失脚後は何度かの出入りを経て、承元3年7月の時点には、中原師俊、大江親広(ちかひろ/広元の子)、北条時房(ときふさ)、中原仲業(なかなり)の4人が名を連ねていた。義時のすぐ下の弟、時房以外はみな京下りの文官である。
義時の名が、政所別当として確認できるのは、同年12月11日に発給の政所下文が最初で、それも最上位にあるから、就任はそれよりも前のはず。年齢や実績、影響力などの諸条件から、いきなり筆頭に据えられても、少なくとも政所内に正面から異を唱える者はいなかったはずである。
揺らぎなき義時への信頼「源頼朝の先例」は重い
政所別当への就任前か就任直後か定かではないが、北条義時は大きな失敗を犯した。『吾妻鏡』もこの件に関しては隠す必要がないと判断したのか、承元3年11月14日の条に次にように記す。
「相州(北条義時)が、年来の郎従の中で手柄のあった者を侍に準じると命じられるよう望まれた。内々その審議があり、実朝は許さなかった。もし許せば、そのような者たちは子孫の代になって、きっと以前の由緒を忘れて、誤って幕府へ直参を企てるのではないか。後の災いを招く元である。永く許してはならないと厳しく命じられた」
ここで言う郎従(ろうじゅう)は、義時に従う武士を指すから、将軍である源実朝からすれば陪臣(ばいしん/家来のまた家来)にあたる。
一方の「侍」は将軍と直接主従関係のある御家人の意味で使われているから、義時の要望は、自分の家来を御家人の身分へ上昇させて欲しいということに留まらず、自分を他の御家人より一段高く、将軍と御家人の間に位置する特別な存在であると公認することを求める内容だった。実朝の成長具合を試すためだったのか、それとも受け入れられると本気で思っていたかは不明ながら、実朝は義時の願いを却下した。
父頼朝の築いた秩序を安易に改めるわけにはいかない。それは実朝にとって引けない一線で、北条氏を含む御家人全体の共通認識でもあったから、実朝が口実にした内容は正論で義時の面目を失わせない配慮も感じられる。
これより10日前の11月4日、実朝は小御所の東面の小庭に和田常盛(つねもり)以下の若武者を集め、弓の稽古を行なわせているが、これは弓馬(きゅうば)の道をなおざりにされてはならないという、義時の諫言(かんげん)に従ったものだった。おかしな進言が多少あったところで、実朝の義時に対する信頼は揺らぎもせず、もっとも頼りになる御家人であることに変わりなかった。
11月14日の請願と関連して、『吾妻鏡』の同年11月20日条と12月15日条には、守護の職務怠慢から治安が乱れていることして、守護の任期を定め交替制にする案が審議されたが、源頼朝の下文が現存するなら、小さな過ちを犯した程度では、改補できないとの決定が下され、以後は怠慢のなきよう注意勧告がなされたとする記事が見える。
既得権益者に甘すぎるように思えるが、別な見方をするなら、鎌倉幕府において「源頼朝の先例」がいかに重視されたかが、如実に示された一件と言える。
監修・文/島崎晋