時政らの野望を政子・義時が阻止した「牧の方事件」【前編】
鎌倉殿の「大粛清」劇⑭
年の差夫婦で魔が差した時政の幕府乗っ取り計画

娘婿である、平賀朝雅の将軍擁立計画を企てた牧の方。国立国会図書館蔵
比企氏の滅亡と源頼家の隠居および千幡(実朝)の擁立により、外祖父である北条時政の権力は著しく強まった。時政の肩書は幕政の中心機関である政所の別当(長官)。複数いるなかでの上席であったから、事実上の初代執権と言ってよかった。
時政は少なくとも、生涯に2度の結婚をしている。先妻は伊東祐親の娘で、2人の間からは北条宗時、政子、義時らが生まれた。
彼女と死別した後、時政が後妻に迎えたのは、平頼盛(たいらのよりもり)の所領であった駿河国大岡牧で預所を務める牧宗親(まきむねちか)の娘で、俗に牧(まき)の方(かた)または牧氏と呼ばれる。
平頼盛は平清盛の異母弟で、生母は清盛の継母である池禅尼(いけのぜんに)。平治の乱後、虜囚の身となった源頼朝の助命を請(こ)うた女性であり、牧宗親を彼女の実弟とする説が有力視されている。
その通りであれば、牧の方は池禅尼の姪にあたり、生まれも育ちも都であった可能性が高く、のちに牧の方所生の女子が滋野井実宣(しげのいさねのぶ)や藤原師家、坊門忠清(ぼうもんただきよ)など、いずれも藤原北家の流れを汲(く)む上級貴族に正室として迎えられたのも納得がいく。
詳細な経緯はともあれ、都の上級貴族との間に強い伝手のできた効果は大きく、実朝が都から正室を迎える意向を示すと、時政はその人脈を駆使して、坊門忠清の姉妹に白羽の矢を立てた。この縁組がうまく運べば、実朝と後鳥羽院は義兄弟の間柄となり、時政も娘を通じてその閨閥(けいばつ)に名を連ねることができる。縁談の話がまとまると、時政は牧の方所生(しょせい)の北条政範(まさのり)をはじめ、見目麗しい若武者ばかりを揃え、実朝の正室となる姫君を迎えるべく上洛させた。
時に政範は16歳。時政と牧の方は義時より25歳年下の政範に継がせるつもりで、破格の出世をさせてもいたが、元久元年(1204)11月5日、その政範が上洛途上で体調を崩し、在京中に病死してしまった。
これにより時政と牧の方夫妻の目算に大きな狂いが生じる。先妻所生の子らが選択の外であれば、女婿の誰かを代わりとするしかない。このとき時政と牧の方が選んだのは源氏一門の筆頭で、源頼朝からの信頼も厚かった平賀義信の子息であった。
父の野望を阻止するため政子と義時は実朝を確保
北条政子と義時は長らく父時政と共同歩調をとってきたが、頼家を隠居させた直後から、両者の関係に軋みが生じた。
千幡の身柄が政子の住む大御所から時政の名越邸へ移されたのは、建仁3年(1203)9月10日のことだが、同月15日には再び大御所に迎えられた。
成人するまでという条件付きだが、成人すれば後見人のもとではなく、独自の御所を構えることになるから、時政と牧の方夫妻による暗殺を危惧した政子が、大事を取ったのは明らかだった。
『吾妻鏡』によれば、最初に懸念を示したのは千幡に随行していた乳母の阿波局(政子の三妹)だった。
「何かにつけ、牧の方の笑顔には害心が含まれております。守り役として信頼できません。よくないことが起きるのではと不安でなりません」
これを聞いた政子はすぐさま義時と三浦義村、結城朝光らを遣わし、千幡の身柄を移させた。何も聞かされていなかった時政は狼狽(うろた)えるばかりで、政子に仕える駿河局という女房を介して、陳謝したという。
この一件は大事と化すことはなかったが、後から顧みれば、親子決裂の前兆に他ならなかった。
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