時政らの野望を政子・義時が阻止した「牧の方事件」【後編】
鎌倉殿の「大粛清」劇⑮
平氏残党を3日で平定し、存在感を誇示した平賀朝雅

平賀朝雅
源頼朝に重用された平賀義信の次男で、母は頼朝の乳母である比企尼の三女。京都守護として後鳥羽院に重用された。なお兄の大内惟義は牧の方事件で時政に連座せず、朝雅の死後、朝雅が有していた伊勢・伊賀守護を引き継いだ。
北条時政・牧の方の計画が発覚すれば、平賀朝雅(ひらがともまさ)も無事でいられるはずはなかった。改めて説明するが、朝雅は源氏一門筆頭と位置付けられた平賀義信の次男で、義信の死去に伴い、家督と武蔵守の職を継承した。
牧の方所生のなかでも、嫡女の婿に選ばれただけあって、朝雅は北条時政からの信任厚く、『吾妻鏡』には、「武蔵守朝雅が京都警固のために上洛した。西国に所領のある者は朝雅と共に在京するよう御書が廻らされた」とあり、朝雅は京都守護の大役を任されていた。京都守護は都の治安維持にあたるだけでなく、西国全体に睨みを利かせる役割も担い、元久元年(1204)3月にはその実力の試される事件が勃発した。
伊勢・伊賀両国で平家一門の残党が蜂起し、両国の守護を兼ねる山内首藤経俊(やまのうちすどうつねとし)は無勢のために敗れて逃亡。そのため朝雅に出陣命令が下された。
鈴鹿関を塞がれたことから、朝雅は迂回せざるを得なかったが、伊勢国内に入ってからは滞りなく、本格的な戦闘を交えることわずか3日で伊勢一国の平定に成功。伊賀国の蜂起軍も同じく短期間で討ち平らげることができた。
あっけなく平定されたことから、この騒動は「三日平氏の乱」とも呼ばれる。
立役者となった平賀朝雅は「親の七光り」でなく、武門源氏に相応しい存在であることを天下に示した形で、藤原定家の『明月記』によれば、後鳥羽院に至っては朝雅を「上北面(じょうほくめん)」と同じように扱い、「殿上人(てんじょうびと)」として遇したという。「上北面」とは白河法皇が創設した院直属の武士のうち、四位・五位の官位者を中心に構成された隊で、六位の武士を中心とした下北面より格上という位置づけの、言うなればエリート部隊であった。
一方の殿上人は天皇の日常の居所である清涼殿への昇殿を許された人を指すから、上級貴族の同義語とみてよく、朝雅がいかに後鳥羽院から重用されたかが見て取れる。
今回の恩賞としては、後鳥羽院の口添えもあって、伊賀国守護職に補任のうえ、伊勢平氏私領の水田を賜るが、一国に守護職が2人置かれるはずはないから、身から出た錆とはいえ、山内首藤経俊は割を食わされる形となった。
武士であれば、武功は名誉になるし、実利にもつながる目出度いことのはずが、今回の朝雅の場合に限れば、結果として凶と出た。武門の棟梁として十分な才の保持者であることを明示してしまったのだから。
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