後鳥羽上皇と異なる政治信条を持っていた「慈円」
後鳥羽上皇と京の人々②
11月6日(日)放送の『鎌倉殿の13人』第42回「夢のゆくえ」では、3代将軍・源実朝(みなもとのさねとも/柿澤勇人)が積極的に政に乗り出す姿が描かれた。善政を施す名君を目指し、実朝は聖徳太子のように功徳を積もうと励む。実朝の純粋無垢な政治の背後に後鳥羽上皇(尾上松也)の存在を嗅ぎ取った執権・北条義時(ほうじょうよしとき/小栗旬)は、まさかの人物に裏をかかれることになる。

京都府京都市にある青蓮院。天台宗総本山比叡山延暦寺の三門跡のひとつで、慈円は第三世門主を務めた。当時、慈円は新興宗教で激しい抑圧に遭っていた浄土宗・法然や浄土真宗・親鸞に理解を示し、天台宗の僧でありながら庇護したという。
後鳥羽上皇の幕府介入に義時は窮地に立たされる
鎌倉を源氏の手に取り戻すとの覚悟を決めた3代鎌倉殿・源実朝は、後鳥羽上皇を後ろ盾に政を進めていくことにした。再び北条泰時(やすとき/坂口健太郎)を側近に据えたのは、政権内の影の支配者である北条義時に唯一異を唱えることのできる人物だからだ。
一方、実朝のそばに自身の嫡男がいることに、義時は厳しい目を向ける。
そんななか、京から源仲章(みなもとのなかあきら/生田斗真)が客人を連れて帰ってくる。東大寺大仏殿の再建を果たした宋の陳和卿(ちんなけい/テイ龍進)は、大きな船を造り、宋と交易を行なうことを提案。慈悲深い名君となるため聖徳太子の政治を手本とすることを考えていた実朝は、すぐさま取り掛かるよう指示した。
義時はこの動きを後鳥羽上皇の差し金だと看破(かんぱ)。造船に反対したが、実朝は譲らない。そこで、密かに設計図の値を書き換えるという裏工作で、船の重量を計画よりかさ増しし、進水式を大失敗に終わらせた。
意気消沈する実朝に、母であり、初代鎌倉殿・源頼朝の妻である北条政子(まさこ/小池栄子)は、考え抜いた秘策を授ける。その策とは、実朝が将軍の座を返上し、大御所となるというもの。そして、京から高貴な血筋の人物を養子として迎え、空位となった鎌倉殿に据えるというのだ。
鎌倉殿とは武士の頂点に立つ者であり、源氏の血筋の者でなければならない。さらに北条の血を引く者であればこそ、義時の権威は保たれていた。実朝と政子の打った大博打に、泰時も賛同した。
孤立した義時の前に、仲章が微笑みを浮かべながら立ちはだかる。主導権が鎌倉になく、朝廷の手に握られていることに義時は歯噛みする。
そんななか、義時にとって最愛の父・北条時政(ときまさ/坂東彌十郎)が亡くなった。義時の手によって鎌倉を追放されてから、10年後のことだった。
文学と平和をこよなく愛した高僧
劇中で後鳥羽上皇に付かず離れずの存在として描かれる慈円(じえん)は、史実でも、ともに和歌を嗜(たしな)むなど、深い関係を築いている。
優れた和歌を数多く残すほど、慈円は文学への造詣(ぞうけい)が深かった。後鳥羽上皇の命によって編纂された『新古今和歌集』に選ばれた慈円の和歌は実に92首。この数は、歌人の西行に次ぐ多さという。
慈円の父は、30年以上にわたり摂政関白の座で権力を握り続けた藤原忠通(ふじわらのただみち)。公家の中でも家格の高い五摂家のひとつ、九条家の始祖として知られる九条兼実(くじょうかねざね)は、慈円の異母兄にあたる。
幼くして両親と別れ、権中納言・藤原経定(ふじわらのつねさだ)の未亡人に養われた。永万元年(1165)に仏の道に進むことを決め、延暦寺に入る。11歳のことだった。
仁安2年(1167)に出家。養和元年(1181)に慈円を名乗る。
寿永3年(1184)以降、兄の九条兼実が後鳥羽天皇のもとでまたたく間に昇進すると、仏門に邁進していた慈円もまた、朝廷との距離が近づいていく。そして、建久3年(1192)に後鳥羽天皇のために祈祷を行なう護持僧に選ばれた。
建久7年(1196)の政変にて、兼実の失脚に連座する形で、自身も蟄居。しかし、まもなく後鳥羽上皇の招きで、再び朝廷のための祈祷を再開している。
大河ドラマの中では後鳥羽上皇は慈円の意見を求める場面が度々描かれているが、政治信条の上では真逆の立場だった。
上皇が幕府の実権を握る北条義時への敵対心を緩めることはなかったのに対し、慈円は公武協調、すなわち、朝廷と幕府とは協力関係を築くべきと考えていたのだ。
慈円の事績として、全7巻の歴史書『愚管抄』の執筆が挙げられるが、これは上皇の挙兵を思いとどまらせるため、という説もある。
また、生涯で天台宗の諸末寺を総監する天台座主に4度も任命されたことも、慈円の事績で特筆すべきことである。