三浦一族の内部抗争でもあった「和田合戦」
頼朝亡き後の謀反・抗争を巡る謎⑩
10月30日(日)放送の『鎌倉殿の13人』第41回「義盛、お前に罪はない」では、鎌倉随一の忠臣・和田義盛(わだよしもり/横田栄司)の謀反の様子が描かれた。一方、幕府の影の実力者で、義盛と旧知の仲である北条義時(ほうじょうよしとき/小栗旬)は、人知れず哀しみの表情を浮かべていた。冷徹な面持ちに隠された義時の素顔を知る者は、誰一人いなかった。

神奈川県鎌倉市にある由比ヶ浜海岸。奮戦を続けていた和田義盛だったが、愛息だった四男の義直が討死したことを知ると戦意を喪失。最期はあっけなく討ち取られたという。義盛の首実検は由比ヶ浜で行なわれた。この海岸は、義盛が源頼朝の弟である義経の首実検を行なった場所でもある。
武士の築いた鎌倉の街が戦火にまみれる
息子たちが勝手に挙兵したことを和田義盛が知ったのは、館に戻ってからだった。もはや後戻りできぬと覚悟を決めた義盛は、敵はあくまで北条義時であり、鎌倉殿である源実朝(みなもとのさねとも/柿澤勇人)には一切手を出してはならない、と息子たちに厳命する。
三浦義村(みうらよしむら/山本耕史)からの報告で義盛の蜂起を知った義時は、実朝とともに御所を出て、鶴岡八幡宮に身を寄せた。
それからまもなく、義盛率いる軍勢が御所に突入。「和田合戦」が開戦した。義時の息子である北条泰時(やすとき/坂口健太郎)も参戦し、戦いは一進一退の攻防となる。
戦いは深夜に至るまで決することがなかった。和田勢はいったん由比ヶ浜に退却。態勢を立て直した。
翌日、義時は実朝を陣頭に立たせた。義盛の説得にあたらせるためだ。
戦場の最前線で、実朝が交渉している最中、義時の命で義盛に雨のような矢が放たれた。絶命した義盛を見届けた義時は、真っ赤に目を腫らした泰時の刺すような視線を背にしながら、その場を後にする。義時の表情が必死に涙をこらえて歪んでいたことを、誰も知らない。
義盛の死から18日後。関東は大きな地震に見舞われた。まるで、鎌倉の未来に暗雲が立ち込めていることを暗示するかのようだった。
北条義時・三浦義村の立場が大きく躍進
鎌倉幕府公式の歴史書である『吾妻鏡』では、劇中で前回描かれた「泉親衡(いずみちかひら)の乱」にて、和田義盛の息子と甥が乱に参画し、息子は許されたものの、甥が許されず流刑になったことに腹を立て、義盛が挙兵したことになっている。
義盛の目的は、御所を攻撃して将軍・源実朝を確保し、北条義時を謀反人とすること。謀反の噂を聞きつけた実朝から自重するよう促されたが、義盛の決意は変わらなかった。変わらなかった、というより、自身に反逆の意思はないが、義時の傍若無人ぶりに家臣たちが憤っており、自分には止めることができない、と返事をしていたようだ(『吾妻鏡』)。
義盛の館に兵が集まっているのを知った八田知重(はったともしげ/八田知家の子)が、すぐさま大江広元(おおえひろもと)に通報。時を同じくして、三浦義村も当初は義盛に同調していたが、弟の三浦胤義(たねよし)と相談して幕府方につくことにして、同様の報告を義時にしている。
「和田合戦」において謎とされるのは、なぜ義村が同族の義盛を裏切ったのか、である。
ドラマでも描かれている通り、義盛と義村とはいとこの間柄。そもそもは義盛の父・杉本義宗(すぎもとよしむね)が三浦氏の嫡男として後を継ぐことになっていた。ところが義宗が戦死したために、三浦氏の家督は義村の父である三浦義澄(よしずみ)に譲られている。
つまり、本来であれば逆になるはずだったが、三浦氏の本家を義村が、分家を義盛が継いだことになる。ここに複雑な関係が築かれた。
源頼朝(みなもとのよりとも)の挙兵時から幕府創設に尽力した功績が認められ、義盛は侍所別当に抜擢。2代将軍・頼家(よりいえ)の頃には義澄とともに13人の宿老に入閣するまでとなった。本家と分家が幕府内で対等の立場となったのである。
もっと穿った見方をすれば、侍所別当は御家人を束ねる役職であるため、分家が本家をしのぐ権力を握ったと考えることもできる。
3代・実朝の時には、北条時政(ときまさ)の失脚以降、幕府内で義盛が最長老というべき立場となった。天台宗の僧侶である慈円(じえん)の描いた歴史書『愚管抄』では、義盛のことを「義盛左衛門ト云三浦ノ長者」と紹介している。この頃には本家と分家の立場の逆転が確定し、義盛が義村を指導する状況になっていたのかもしれない。
三浦氏本家の棟梁というべき義村が、分家の棟梁である義盛の声望が高まっていくにつれ、後ろ暗い気持ちを募らせていったのだとすれば、土壇場で裏切りを見せたとしても不思議ではない。
いずれにせよ、この裏切りで幕府の危機を救った義村は、政権内での発言権が増すことになる。建長6年(1254)に成立したとされる説話集『古今著聞集』には、「三浦の犬は友を食らう」と辛辣に評されている。
なお、「和田合戦」後、義時は政所別当のみならず、義盛の役職であった侍所別当をも兼務することとなり、事実上の幕府の最高権力者となった。一般的には、この時が「執権」職の確立した瞬間といわれている。「執権」職は、後に北条氏が世襲していくこととなる。