×
日本史
世界史
連載
ニュース
エンタメ
誌面連動企画

承久の乱に敗れて配流された後鳥羽上皇の祟りとは?

鬼滅の戦史96


承久の乱で流罪となった後鳥羽(ごとば)上皇は、のちに魔縁(まえん)となって、世に祟(たた)りを為したと言い伝えられている。それはいったい、どのような経緯によるものなのだろうか?


 

北条義時追討の宣旨を発出

後鳥羽上皇『百人一首図絵』田山敬儀筆/国文学研究資料館蔵

 史上、最も恐れられた怨霊はだれか? それは、いうまでもなく、保元の乱で後白河天皇に敗れて讃岐へと流された崇徳上皇である。菅原道真(すがわらのみちざね)や平将門(たいらのまさかど)とともに、日本3大怨霊のひとりとして語り継がれた、史上最強の怨霊だ。

 

「日本国の大魔縁となって、皇を民とし、民を皇となさん!」つまり、「天狗の親分となり、天皇を引きずり下ろしてやる!」と息巻いたというのだから、言われた側の後白河天皇も、真っ青になったに違いない。

 

 その怯えた側の後白河天皇の孫が後鳥羽天皇であるが、この御仁もまた、怨霊となって世を震撼させたことで知られている。

 

 後鳥羽天皇といえば、上皇となって以降、皇室の権威維持と武家政権打倒を目指し、北条義時(ほうじょうよしとき)追討の宣旨を発した京の都の権力者である。朝廷と鎌倉幕府が交戦した承久の乱の、朝廷側のトップである。

 

 かたや、幕府軍を率いるのは、2代目執権・北条義時と、その子・泰時(やすとき)、義時の弟・時房(ときふさ)らであった。義時追討の宣旨が発せられた以上、傍観していては不利。積極的に打って出た方が得策との大江広元の進言を受け入れて出陣したのである。

 

 泰時、時房率いる東海道軍10万騎、朝時率いる北陸道軍4万騎、武田信光率いる東山道軍5万騎の、総勢19万騎(実数はその10分の1以下だったとの説も)という大軍をもって、三方より京へと向かったのだ。承久3年(1221)522日のことであった。

 

 その後、木曽川の戦いや瀬田の戦いなどを経て、613日、ついに宇治川に架かる宇治橋を前に、両軍が激突。朝廷側が、当初の在京の武士1700騎からどの程度増やすことができたのかは定かではないが、期待していた比叡山延暦寺が協力を拒んだことで、目論見が外れた。当然のことながら、宇治川を超えることができたのは幕府軍側で、その後京へとなだれ込んで火を放ち、略奪まで行ったと言われている。

順徳上皇『百人一首図絵』田山敬儀筆/国文学研究資料館蔵

後鳥羽上皇配流で武家政権が確立

 

 ともあれ、負けた後鳥羽上皇は、反乱を企てたのは謀臣のせいと弁明して義時追討の院宣を取り消したものの、時すでに遅し。首謀者である後鳥羽上皇は隠岐島(おきのしま)へ、その子・順徳(じゅんとく)上皇は佐渡島へ、兄の土御門(つちみかど)上皇は自ら望んで土佐国へと流されていった他、雅成(まさなり)親王や頼仁(よりひと)親王も但馬国(たじまのくに)や備前国(びぜんのくに)に流された。

 

 順徳上皇の子・仲恭(ちゅうきょう)天皇も廃(はい)されて、後鳥羽上皇の兄・行助法(ぎょうじょほう)親王の子・茂仁王を後堀河(ごほりかわ)天皇として即位させたのである。もちろん、後鳥羽上皇の広大な荘園も没収され、朝廷自体も、新たに設置された六波羅探題(ろくはらたんだい)によって監視されるようになったことはいうまでもない。

 

 以降、朝廷は幕府の監督下におかれることになったわけで、ここにおいてようやく武家政権が確立したのである。その意味で、武家政権の誕生こそ鎌倉幕府が成立した1185年あるいは1192年と言えるかもしれないが、真の意味で武家政権が確立したのは、承久の乱(1221年)で幕府側が朝廷に圧勝した時以降と見なすべきなのだ。

 

上皇の生霊が義時を殺した?

 

 前置きが長くなったが、本題はここからである。隠岐島へと流された後鳥羽上皇は、その後、どのような経緯で生霊あるいは怨霊となって祟ったと言われるようになったのか?

 

 実は隠岐島に流されてから10数年も後のこと、武家たちに政権を分捕られたことが悔しかったのだろう。前述の崇徳上皇同様の悪態をついたというのである。「もしも魔縁に成ることになれば、この世に災いを為してやる!」と息巻いたという。嘉禎3年(1237)のことであった。

 

 上皇はその2年後の延応元年(1239)3月28日に同地で崩御。それから1年も経たずして、承久の乱において東海道軍の大将軍の一人として活躍した三浦義村(みうらよしむら)が頓死(12月5日)、さらには同じく東海道軍を率いた北条時房が、義村の死から1ヶ月半後(翌年1月24日)に亡くなっている。これが、物議を醸し出す一因であった。義村の死因が謎めいたものであったことも、その思いを強くしたようである。彼らの死が、後鳥羽上皇の祟りによるものと恐れられたのだ。

 

 さらには、北条政子(1225年7月11日死去)や義時(1224年6月13日死去)、大江広元(1225年6月10日死去)らが、前述の三上皇が配流となったのと同じ月である6〜7月頃に死去していたということも、あらためて思い起こされた。偶然と見なすには出来過ぎていたからである。

 

 これもまた、上皇の生霊の為せるものと信じられるようになったのも、当時としては無理のない話であった。不幸な出来事が起きる度に、上皇の祟りと噂されるようになったのだから、上皇としても、往生したくとも出来なかったというべきか…?

 

 ともあれ、幕府はその霊を慰めるために、鶴岡八幡宮境内に上皇を祀る新宮(今宮)を築いて、鎮魂に意を注いだようである。

KEYWORDS:

過去記事

藤井勝彦ふじい かつひこ

1955年大阪生まれ。歴史紀行作家・写真家。『日本神話の迷宮』『日本神話の謎を歩く』(天夢人)、『邪馬台国』『三国志合戰事典』『図解三国志』『図解ダーティヒロイン』(新紀元社)、『神々が宿る絶景100』(宝島社)、『写真で見る三国志』『世界遺産 富士山を行く!』『世界の国ぐに ビジュアル事典』(メイツ出版)、『中国の世界遺産』(JTBパブリッシング)など、日本および中国の古代史関連等の書籍を多数出版している。

最新号案内