黒幕の存在が囁かれる「実朝暗殺」事件
頼朝亡き後の謀反・抗争を巡る謎⑪
11月27日(日)放送の『鎌倉殿の13人』第45回「八幡宮の階段」では、鶴岡八幡宮で行なわれた源実朝(みなもとのさねとも/柿澤勇人)の右大臣拝賀式で起こった、惨劇が描かれた。次期鎌倉殿の座を狙う公暁(こうぎょう/寛一郎)が招いた、幕府創設以来最大の事件に、鎌倉は大きく揺れた。

源実朝の菩提を弔うために実朝正室・本覚尼が京に建立した大通寺。尼寺として栄え、実朝の母北条政子も援助したといわれ、本尊の脇には源実朝像が安置されている。本覚尼は実朝が案サルされると、京へ戻り暮らしたという。(写真:京都の無料写真素材)
突如として訪れた鎌倉殿の最期
右大臣就任を祝う鶴岡八幡宮での拝賀式(はいがしき)にて、鎌倉殿・源実朝が大階段を降りていると、そこへ鶴岡八幡宮別当の公暁が飛び出してきた。「覚悟!」と叫びながら、公暁は太刀持ちの人物を斬りつける。斬った相手は目的の北条義時(ほうじょうよしとき/小栗旬)ではなく、御家人の源仲章(みなもとのなかあきら/生田斗真)だった。
次に公暁が狙いを定めたのは、実朝だった。実朝は公暁の想いを察したように頷き、持っていた小刀を捨てた。その様子を見て、公暁は咆哮(ほうこう)して実朝を斬った。
その場から逃亡した公暁は、祖母の北条政子(まさこ/小池栄子)のもとを訪ねる。公暁は実朝の部屋から持ち出したという髑髏(どくろ/されこうべ)を政子に見せた。代々の鎌倉殿に受け継がれているものだ。公暁は「4代目は私です」と言い残して立ち去った。
その後、公暁は支援者であった三浦義村(みうらよしむら/山本耕史)に助けを求めるが、逆に殺される。
実朝も公暁も失った政子は、生きる希望を失った。小刀を喉元にやると、義時の下で密命を遂行する雑色・トウ(山本千尋)が現れ、政子の手を押さえる。トウは「自ら死んではならない」と静かにたしなめた。政子はしんしんと降り積もる雪のなか、慟哭する。
そんななか義時は、仏師・運慶(うんけい/相島一之)に自身に似せた仏像の造立を依頼。その理由は「頼朝様がなしえなかったことをしたい」という。
源氏将軍断絶となった鎌倉幕府最大の悲劇
鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』によれば、建保7(1219)年1月27日は、夜から雪が降り出したという。二尺あまり(約66cm)も降り積もるほどというのは、温暖な気候だったといわれる鎌倉時代には珍しい空模様だ。
拝賀式が終わったのは夜中。八幡宮を退去する最中に、物陰に潜んでいた公暁が突如現れ、将軍・源実朝を討ち取った。その際、公暁は「親の敵はかく討つぞ」と叫びながら実朝を斬りつけたという(『愚管抄』)。
実朝の首を手にその場から姿をくらました公暁は、三浦義村のもとに「自分が大将軍に就く順番」と告げる使者を送り、就任の準備をするよう指示。義村は公暁に従うフリをする一方で執権・北条義時に通報し、家人を送って公暁を討った(『吾妻鏡』)。
つまり公暁の狙いは、父・源頼家(よりいえ)の敵として実朝を殺し、次期将軍の座に就くことだった、ということになる。
しかし、そもそも僧侶として修行を積んでいた公暁が次期将軍の座を望むだろうか。あるいは、このような暴挙に出て将軍を担えると思っていたのだろうか。いずれにせよ、将軍就任には後押しをする協力者が必要になる。こうしたことから、この事件の陰には黒幕がいるのでは、と古くから囁かれてきた。
まず疑われるのは執権・北条義時だ。朝廷との距離を縮めていた実朝と、鎌倉を武家の独立国家体制にしたい義時との間には、対立があったといわれる。
義時の不審な点は、参拝する直前に体調不良を訴えて自邸に戻っていること。そのため、義時の代理で御剣役を務めた御家人の源仲章が義時と誤認されて殺されている。すんでのところで命拾いをしたので神仏の加護を受けたのだ、と『吾妻鏡』は記すが、難を逃れたのは計画を知っていたから、とも受け取れる。そこから、義時は「実朝を殺せば次の将軍にしてやる」などと公暁を唆したのではないかといわれている。
なお、天台宗座主を務めた慈円(じえん)の歴史書『愚管抄』によれば、義時は実朝に中門に留まるよう命じられ参拝に参列できなかったとしている。
しかし、実朝が後鳥羽上皇の子を跡継ぎに迎えるというのは、義時の姉である北条政子が積極的に関わったもの。実朝と政治的対立があったとはいえ、義時が政子の携わった計画を潰そうとしたり、実朝を殺害したりするだろうか、という疑問が残る。
次に疑われるのは三浦義村だ。三浦氏は公暁の乳母を務めており、支援する立場だったことは間違いない。実際に実朝の殺害後に公暁が義村に協力を求めたという事実もある。実朝と義時がいなくなった後、公暁を将軍に据え、それを補佐する地位に義村が収まるというのは十分に考えられる。つまり、二人を排除することで最も得をするのは義村で、黒幕としての資格は十分だ。
ところが、公暁は実朝暗殺には成功したものの、義時の殺害には失敗した。そこで、陰謀が発覚するのを恐れて公暁を始末した、というのが三浦義村黒幕説の全貌である。
可能性は否定できないものの、義村の一連の行動から疑問の余地が残る。彼は実朝暗殺以前も、承久の乱以降も、一貫して政子・義時体制を支持する立場を取り続けている。自身の一族である和田義盛(わだよしもり)が起こした反乱ですら義時側に立っていることは、その証左といえる。
また、実朝暗殺は多くの御家人の眼前で行なわれた事件であり、主殺しの大罪人を次期将軍に据えることを果たして御家人たちが容認するのか、というのも大きな疑問である。これまでの幕府内の経緯を知っている義村であれば、御家人たちの掌握がなおさら難しいことが分かっていたはずである。
最後に黒幕として挙げられるのは、後鳥羽上皇だ。
そもそもこの頃の実朝は官位の昇進をしきりに望んでおり、上皇は実朝の希望に応える形で、建保6(1218)年1月に権大納言、同年3月に左近衛大将、同年10月に内大臣へ昇進させている。あまりの早さに、御家人の大江広元(おおえひろもと)も「官位の上昇が早すぎるので断った方がいい」と諌めたことがあるほどだ。
鎌倉時代中期に成立したとされる軍記物語『承久記』では、これを「官打ち」と解釈している。「官打ち」とは、身分不相応な者にことさら高い官位を与えることで、その重みに耐えきれず命を縮めさせるという呪詛のこと。つまり、実朝は後鳥羽上皇に呪いをかけられていたというのだ。
しかし、後鳥羽上皇と実朝との関係はいたって良好だったとするのが通説だ。後鳥羽上皇は実朝から忠誠を誓う和歌を贈られているし、自らの子を鎌倉に下向させ、その後見となる実朝の官位を昇らせること自体は不自然ではない。自身の言うなりになる実朝を上皇が殺さなければならない理由はほとんど見当たらない。
結局のところ、最も説得力があるのは公暁の単独犯行説ということになる。
公暁は建保5(1217)年に鶴岡八幡宮別当となったが、翌年から髪も下ろさず八幡宮に籠もって何らかの祈祷を行なっており、人々から怪しまれている(『吾妻鏡』)。何者かを呪詛していたのは濃厚で、その相手は実朝と推測されている。
公暁の父である源頼家を抹殺したのはあくまでも北条氏であり、当時まだ13歳だった実朝が陰謀に加担することはあまり考えられない。ひょっとしたら、「父の敵は実朝である」と公暁に吹き込んだ人物はいるかもしれないが、それが義時にしろ、義村にしろ、あるいは後鳥羽上皇にしろ、いずれも実朝暗殺につながる確実な動機が見当たらないのが実状である。