承久の乱後に設置された「六波羅探題」とはいかなる機関だったのか?
今月の歴史人 Part.3
中世最大級内乱「承久の乱」は鎌倉幕府側の勝利で終わった。それまで朝廷と幕府の二元体制から、勝者となった鎌倉幕府に政治の主導権が移り、公武の力関係が一変。全国に影響力を広げた鎌倉幕府では、北条氏による執権政治体制が整っていった。
■北条一門の武士が2人体制で六波羅に駐留

六波羅蜜寺 現在の六波羅蜜寺が立つ場所に「六波羅探題」は設置され、朝廷の監視と京の治安維持を鎌倉幕府から任命された者が担当した。
承久の乱の経験を通じ、朝廷への監視を強化する必要性を痛感した鎌倉幕府は、それまでの京都守護に代えて、新たに六波羅探題の設置を決めた。その名称から明らかなように、場所は平家一門の根拠地であった鴨川東岸の六波羅である。平家一門は都落ちにあたり、建物をすべて焼き払ったが、その跡地はまるまる源頼朝に与えられたため、頼朝が入洛時に宿所を営んだ場所を原形に館群が再建され、北条泰時・時房が入洛したときにはすでに、大人数を迎えられるだけの規模になっていたのだろう。2人はそのまま初代の六波羅探題となった。
六波羅探題は機関名であると同時に長官を指す職名でもあるが、実のところ南北朝時代以降に生まれた名称で、鎌倉時代には機関としても長官職としても単に六波羅、六波羅守護などと呼ばれた。
承久の乱で後鳥羽上皇が挙兵したとき、六波羅探題の前身にあたる京都守護は伊賀光季と大江親広の2人が務めていた。武士と文官各1名だったが、文官の大江親広は迫られて、上皇側に加担してしまった。それを反省点としたのか、鎌倉時代を通じて六波羅探題に文官が任じられることはなく、なおかつ北条一門で固められた。2人体制で、それぞれの館は六条坊門小路を東に延長した小路を挟んで北と南に相対し、北方と南方、または北殿と南殿と呼ばれた。幕府の機構上、将軍は別として、執権、連署に次ぐ要職と受け取られた。2人体制でどちらも北条一門の武士となると、上下関係で揉めそうだが、その点に関しては北方の探題が上席であると、最初から明確にされていた。そのため南方の探題が不在な時期もあれば、完全な閑職と化した時期もあった。
■京の治安維持や訴訟にも関わった六波羅探題
元寇以降は、北方の探題は播磨国(現・兵庫県南西部)、南方の探題は丹波国(現・京都府と兵庫県)の守護職を兼ねるようになったが、それより前から、彼らには大きな役目が3つあった。
第1は朝廷との交渉、第2は京都の治安維持、第3は訴訟の処理だ。
第1の朝廷との交渉は、関東申次(幕府との連絡を行う朝廷の役職)の西園寺氏を介することが多く、幕府側が圧倒的に優位にあるうちは、何も難しいことはなかった。
第2の治安の維持に当たったのは、探題の有力家人が頭人(長)を務める検断方かたという機関だった。
院政期以来の懸案事項である野盗の跋扈、僧兵の強訴(朝廷や幕府に対して、集団で要求を強要すること)が断続的に続いており、とりわけ改善されたわけでも悪化したわけでもなかった。
第3の訴訟の処理に当たったのは引付けという機関で、頭人には代々京都に居住する御家人が当たった。これを在京人と言う。
院政期以来、坂東武士の各家では所領を管理する者と京都に常駐する者という役割分担がなされており、ここで言う在京人は後者である。鎌倉時代初期の北条氏であれば、北条時政の甥、または従弟、庶弟(異母弟)とも言われる北条時とき定さだがこれに当たる。
六波羅探題が託された訴訟の管轄範囲は尾張国(のち三河国)・加賀国以西だったが、元寇以降、鎮西探題が設置されると、九州は管轄外となった。
監修・文/島崎晋