源実朝暗殺を企てた黒幕は誰か?承久の乱の契機となった悲劇の真相とは?
今月の歴史人 Part.2
いよいよNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』もクライマックスが迫る。終盤の主要人物の一人として、3代将軍・源実朝は欠かせない。実朝は暗殺されることとなるが、その暗殺の真相は未だわかっていない。実行犯は公暁だが、その背後にいた人間とは?
■何故実朝は殺されたのか?議論を呼ぶ黒幕の存在

公暁と源実朝 江戸時代に歌舞伎で演じられたふたり。実朝暗殺事件は後世にまで悲劇の物語として語りつがれていく。(都立中央図書館蔵)
建保7年(1219)1月27日、鎌倉幕府3代将軍・源実朝は、鶴岡八幡宮において、公暁により、殺害された。28歳の若さであった。実朝暗殺の下手人は公暁であるが、その裏には黒幕がいるのではないかとして、昔から議論の対象になってきた。黒幕の真相に迫る前に、公暁についてや、暗殺当日の出来事を見ていこう。
先ず、公暁は、源頼家(幕府2代将軍。頼朝の嫡男)を父とする。正治2年(1200)に生まれた。幼名は、善哉という。公暁の乳母の夫は、三浦義村である。公暁の父・頼家は、鎌倉から伊豆修善寺に追放・幽閉され、元久元年(1204)に北条氏により惨殺された。頼家の追放により、将軍の座についたのが、頼家の弟・実朝であった。公暁は、北条政子の意向により、6歳の時に、尊暁(鶴岡八幡宮の2代目別当)の門弟にされる(最初の法名は頼暁であるが、煩雑なため、公暁で通す)。建保5年5月、鶴岡八幡宮の3代目別当・定暁が死去。これにより、公暁は鶴岡の4代目別当に就任することになる。公暁、この時、18歳。定暁の死がこの時でなければ、後の歴史も大きく変わったことであろう。

公暁悲劇の道鶴岡八幡宮で目的を果たした公暁が、乳母父・三浦義村のもとに向かう途中に辿ったといわれる山道。建長寺~西御門住宅街の裏手に位置する。
そしてついに、建保7年1月27日を迎える。実朝は夜、鶴岡八幡宮での参詣を終え、石段を下り、居並ぶ公卿らに会釈し、笏を持ちつつ、通行していた。すると、そこに法師の格好をした者(公暁)が突如、実朝のもとに走り寄ると、「親の仇はこのように討つのだ」と叫び、刀で実朝の頭を襲撃。倒れたところで、首を切るという大事件が起こる。公暁の他に3、4人、法師の格好をした者が現れて、供の者を追い散らし、松明を振る源仲章を切り殺す。仲章は、北条義時と勘違いされて、殺害されたという。つまり、公暁とその同志は、実朝のみならず、北条義時も標的にしていたのだ。義時は、実朝に命じられて、中門付近に留まっており、難を逃れることができた。
この実朝暗殺の描写は『愚管抄』を基にしたものである。『吾妻鏡』にも、実朝暗殺の記述があり、公暁は「父の敵を討つ」と名乗りをあげ、実朝を殺したとある。そして、義時は楼門を入った際、気分が悪くなり、源仲章に御剣を譲り退出、休憩の後、自邸に戻ったとの記載が目をひく。

公暁の隠れ銀杏実朝暗殺の際、公暁が潜んだという逸話が残る大銀杏。樹齢千年を越える大木として近年まで存在したが2010年に倒木した。
さて、公暁は、実朝の首を持ち、備中阿闍梨の邸(雪下北谷)に向かう。食事している最中も、実朝の首を手から離さなかったという。公暁は、乳母夫の三浦義村に使者を遣わし、自分(公暁)を将軍にするよう計らえと命じる。義村は、使者に「自邸においでください。迎えの兵を送りましょう」と伝えるが、その裏で公暁の動向を北条義時に報告する。義時からは、公暁を殺害せよとの命令が下る。討手を派遣する義村。使者の帰りが遅いと義村の邸に向かおうとする公暁。両者は鉢合わせし、長尾定景が公暁を討ち取ることになる。公暁の本坊も鎌倉御家人により襲撃を受け、悪僧らは制圧された。

三浦義村邸跡公暁が目指した三浦義村邸が存在した場所は、現在は横浜国立大学附属鎌倉小・中学校がある。
実朝暗殺には黒幕がいるとされる。最も疑われてきたのが、北条義時である。しかし、子のない実朝の後継は、親王を将軍に推戴することを、北条氏は当時目指しており、それを進んで御破算にすることは考えられない。筆者は実朝暗殺に黒幕は存在せず、公暁の単独犯行と考えるのである。実朝暗殺後、朝幕関係が悪化したことを思えば、その暗殺は承久の乱の遠因となったと言えよう。
監修・文/濱田浩一郎