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北条政子の演説は、直接ではなく「代読」だった?

今月の歴史人 Part.2


わたしたちが教科書で習った歴史は、新しい史料や研究とともに、日々更新されている。現在、大河ドラマで注目を集める北条政子の「承久の乱での演説」に関する史実も、少し変わってきているようだ。


 

■動揺する御家人たちを沈めるため、直接ではなく、家人が「政子の言葉」を代読し伝えた

北条政子親王将軍交渉の使者として、自らも上洛していた政子は朝廷の信頼も獲得していた。しかし、結果的に朝幕の対決を促すかたちとなった。国立国会図書館蔵

北条政子肖像画。親王将軍交渉の使者として、自らも上洛していた政子は朝廷の信頼も獲得していた。しかし、結果的に朝幕の対決を促すかたちとなった。国立国会図書館蔵

 承久3年(1221)、承久の乱勃発。後鳥羽院が鎌倉幕府の北条義時を打倒するため挙兵する。この緊急事態に対し、大きな役割を果たしたのが、義時の姉である北条政子だったと言われている。

 

 ひと昔前の歴史教科書には、御家人を前にして演説する政子の姿がイラストで載っていたものもあった。しかし、今では政子は演説をしていないと言われるようになった。その変化を見る前に、『吾妻鏡』(鎌倉時代後期に編纂された歴史書)に載る、承久の乱に際する政子の言葉を見てみよう。

 

「皆、心を一つにして良くお聞きなさい。これが最後の命令です。頼朝様が朝敵(平家など)を征伐して、関東に幕府を造って以来、朝廷の官位にしても、褒美として与えられた領地にしても、その恩は山より高く、海より深いものでしょう。感謝の気持ちは浅いものではないはずです。それなのに、今度、逆臣の讒言により道理の通らない朝廷の命令が出ました。勇敢なる侍としての名誉を守ろうと思う者は、足利秀康や三浦胤義を討ち取って、源氏3代將軍の残した鎌倉を守りなさい。但し、朝廷側に付きたいと思う者は、この場で申し出なさい」

政子が実際に語りかけたといわれる三浦義村弟・三浦胤義から届いた朝廷方への勧誘の手紙を読むや、ただちに義時に知らせた義村。その後、院宣は幕府の手により御家人たちの目に触れぬよう押収された。都立中央図書館蔵

政子が実際に語りかけたといわれる三浦義村。弟・三浦胤義から届いた朝廷方への勧誘の手紙を読むや、ただちに義時に知らせた義村。その後、院宣は幕府の手により御家人たちの目に触れぬよう押収された。都立中央図書館蔵

 この「尼将軍」政子の言葉にその場にいた御家人は涙を流し、感激の余り、言葉が出なかった者もいたようだ。皆、命を投げ出して、将軍の御恩に報いようと誓ったという。

承久の乱について記された『承久記』『承久記』の古活字本(17世紀初頭に印刷された活字印刷本)によれば、政子が実際に語りかけた相手は、弟・義時と重臣の三浦義村の2人になっている。国立国会図書館蔵

承久の乱について記された『承久記』。『承久記』の古活字本(17世紀初頭に印刷された活字印刷本)によれば、政子が実際に語りかけた相手は、弟・義時と重臣の三浦義村の2人になっている。国立国会図書館蔵

 しかし、この言葉は一般に思われているように、政子が御家人を前にして語ったものではない。安達景盛(あだちかげもり)という御家人が政子の言葉を代読したのである。それでも御家人への効果は抜群で、皆、奮起した。

 

 その後、幕府軍の作戦を決定するにあたり、義時は軍勢を京都に遣わすか、官軍を関東で迎え撃つか悩んでいた。悩む弟に、政子は「上洛しなければ官軍を破ることはできない。武蔵国の軍勢を待って、速やかに京都へ出発しなさい」と、先手を打って軍勢を京都に派遣することも説いたのである。それにより、義時は軍勢の派遣を決意し、長男・泰時を先行して出陣させ、官軍を撃破するのであった。

 

監修・文/濱田浩一郎

『歴史人』11月号「日本史の新常識」より)

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歴史人編集部れきしじんへんしゅうぶ

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