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鎌倉時代の朝廷の支配者「後鳥羽上皇」はいかなる人生を歩んできたのか?

今月の歴史人 Part.1


いよいよNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』もクライマックスが迫る。終盤のメイン人物の人として後鳥羽上皇は欠かせない。鎌倉時代に朝廷に君臨した後鳥羽上皇はいかなる人物で、どのような人生を歩んできたのかをここでは紹介する!


 

■文化を愛した帝王文も武も政も優れたカリスマ

後鳥羽上皇 和歌に優れ、蹴鞠を楽しみ、自らか作刀したと伝わる多才な人物。文武両道な専制君主として朝廷に君臨した。(国立国会図書館蔵)

後鳥羽上皇 和歌に優れ、蹴鞠を楽しみ、自らか作刀したと伝わる多才な人物。文武両道な専制君主として朝廷に君臨した。(国立国会図書館蔵)

 

 後鳥羽上皇は、治承4年(1180)7月14日、高倉上皇の4男に生まれた。誕生時点で、すでに兄の安徳天皇が即位しており、次男の守もり貞さだ親王は、後鳥羽の同母の兄(母・坊門殖子)であったため、後鳥羽が皇位を継承する可能性は極めて薄かった。

 

 ところが、寿永2年(1183)、安徳天皇は源義仲軍に都を追われた平家軍に奉じられ、西海へと去ってしまう。しかも、平家は平知盛(平清盛の子)が養育していた守貞親王まで、西海へと連れ去った。残された高倉上皇の子のうち、3男の惟これ明あきら親王は母(平義範の娘、清盛一門とは別系統)の身分が低かったため、4男の後鳥羽が即位したのである。

 

 とはいえ、当時4歳の後鳥羽が、みずから政治を行えるはずもない。後鳥羽に代わって実際に政治を行ったのは、後鳥羽の祖父・後白河法皇であった。このように、幼少の天皇に代わって、天皇の直系尊属(父・祖父・曽祖父)である上皇・法皇が政治を行うのが、「院政」と呼ばれる政治形態である。院というのは上皇・法皇の別名で、いずれも譲位した元天皇を指す言葉だが、元天皇であれば誰でも院政を行えるわけではなく、①天皇の直系尊属である、②天皇が幼少である、という2つの条件を満たす必要があった。

 

 なお、後白河が後鳥羽を皇位継承者に選んだ事情のひとつとして、後鳥羽が後白河と面会した際、後鳥羽が人見知りせずをせず後白河に話しかけたという逸話が伝えられている。後鳥羽は幼少時から大物ぶりを発揮していたようである。

 

 後白河が建久3年(1192)に亡くなると、関白・九条兼実が代わって政治を行った。一時的な摂関政治の復活である。後鳥羽自身が直接政務に関わりはじめたのは建久6年、18歳のとき。翌年、後鳥羽は兼実を引退に追い込み(建久七年の政変)、親政を確立する。

 

 さらに建久9年、後鳥羽は長男である土御門天皇に譲位し、上皇となった。当時、土御門はわずか2歳であり、必然的に、後鳥羽が院政を行うことになった。すでに天皇として権力を確立していた後鳥羽が譲位を行った理由は、天皇という地位には様々な制約が存在していたからである。たとえば、天皇は宮中で多くの神事を執り行わねばならないため、常に穢けがれを避けることが求められ、外出も思うようには行えなかったという。

 

 譲位して上皇となったことで制約から解放された後鳥羽は、平安京のある山城国のさらに外、摂津国の水無瀬殿(現・大阪府島本町)へと頻繁に外出している。

 

新古今和歌集 全20巻にもおよぶ勅撰和歌集。後鳥羽上皇の勅命によって編まれ、1205年に完成。在来の勅撰集と異なり、院自ら撰集作業に参加。藤原定家をはじめ上皇近臣が編纂した。国立国会図書館蔵

新古今和歌集
全20巻にもおよぶ勅撰和歌集。後鳥羽上皇の勅命によって編まれ、1205年に完成。在来の勅撰集と異なり、院自ら撰集作業に参加。藤原定家をはじめ上皇近臣が編纂した。(国立国会図書館蔵)

 

 行動の自由を得た後鳥羽上皇は、さまざまな芸能に精力的に取り組んだ。具体的なものとして、文化面では和歌・連歌・楽器(笛・琵琶)・蹴け鞠まりが挙げられる。なかでも、歴史上最も重要な文化事業は、『新古今和歌集』の編纂であった。

 

上皇が作刀したとされる『太刀 銘菊紋菊御作』十二弁の菊花文が刻まれた後鳥羽上皇由来の刀剣。上皇は山城・備前・備中の名工を召して御番鍛冶とし、作刀にあたらせたとされ、この刀剣は後鳥羽上皇の手によるものとされる。京都国立博物館蔵/出典:Colbase

上皇が作刀したとされる『太刀 銘菊紋菊御作』十二弁の菊花文が刻まれた後鳥羽上皇由来の刀剣。上皇は山城・備前・備中の名工を召して御番鍛冶とし、作刀にあたらせたとされ、この刀剣は後鳥羽上皇の手によるものとされる。京都国立博物館蔵/出典:Colbase

 

 これらの文化的な芸能は、後鳥羽以前から院や天皇が愛好してきた、伝統的なものであった。後鳥羽の特異な点は、それまで院や天皇がみずから行うことのなかった武的な芸能にも、積極的に取り組んだことにある。同時代の史料で、後鳥羽がみずから取り組んだことが確認できる武的な芸能は、競馬・笠懸(走る馬の上から、的に懸けた笠を弓で射る芸)・相撲・水練などであった(なお、刀剣の制作や刀鍛冶の組織化は、後世の伝承であり、同時代の史料では確認できない)。

 

 これら諸芸能への取り組みは、単なる個人的な趣味ではなく、政治的な意味が込められていた。後鳥羽の振興によって諸芸が栄えることは、すなわち、為政者としての後鳥羽の政治が優れていることの証しとなるのである。そこに、伝統的な文化だけでなく、武の要素が加わっているのが、新時代の帝王たる後鳥羽の真骨頂であった。

 

 もちろん、後鳥羽はリアルな政治も怠らなかった。鎌倉幕府との関係については後述するが、朝廷内においては、保元元年(1156)の保元の乱以来、争いの絶えなかった摂関家について、近衛家と九条家との並立体制を築いたのをはじめ、後鳥羽は貴族たちの家格秩序を安定させている。その秩序の上に、後鳥羽は絶対的な専制君主として君臨したのである。

 

監修・文/佐伯智広

『歴史人』12月号「承久の乱とその後の鎌倉幕府」より)

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