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後鳥羽上皇に仕えた「西面の武士」の実態

「承久の乱」と鎌倉幕府の「その後」⑩

上皇直属で創設された武力組織

御所を守る武士
絵は後鳥羽上皇統治時代より前の平治の乱を描いた『平治物語絵巻』。武力としての性質はなくなったが、「北面」の名は明治維新まで存続した。東京国立博物館蔵/出典:Colbase

 後鳥羽上皇が創設した組織として、歴史教科書などにも記載されているのが「西面(さいめん)の武士」である。記録上、存在が初めて確認できるのは建永元年(1206)だが、具体的にいつ創設されたのかは不明である。

 

 西面の武士に先行して、院政を始めた白河(しらかわ)法皇(応徳3年[1086]譲位、大治4年[1129]死去)が「北面(ほくめん)の武士」を組織したことも知られているだろう。北面も西面も、院の御所での配置場所に由来する呼び名である。御所の中心で公的な空間である寝殿(しんでん)に対し、北側部分である北面は、院の私的空間であった。

 

 西面の実態については不明点が多いのだが、北面と同様に、寝殿の西側に位置する院の私的空間であったと考えられる。

 

 北面に詰めていた人々は武士だけではなく、中下級の貴族などもいて、院の側近集団を形成していた。これに対し、西面の特徴は、構成員が基本的に武士に限定されていたことにある。

 

 西面の武士には鎌倉幕府の御家人も組織されており、源頼朝(みなもとのよりとも)の挙兵にも参加した加藤光員(かとうみつかず)や、父が同じく頼朝の挙兵に参加した佐々木広綱(ささきひろつな/定綱/さだつなの子)、讃岐(さぬき)国・播磨(はりま)国の守護を歴任した後藤基清(ごとうもときよ/叔父は歌人としても有名な西行/さいぎょう)などが知られている。

 

 一方で、父の代までは武士としての活動実績がほとんどなかったが、後鳥羽の天皇在位中に「滝口(たきぐち)の武士」(天皇の警護役の一つ)となったことをきっかけに後鳥羽に登用され、河内守などに任じられた藤原秀康(ふじわらのひでやす)のように、御家人ではない者も多く含まれていた。

 

 さらに、承元2年(1208)に新日吉(いまひえ)社の小五月会(こさつきえ)という祭礼で開催された流鏑馬(やぶさめ)では、渡辺翔・熊谷直宗という成人の武士とともに、鶴丸・峯王丸といった未成年の西面の子が奉仕している。彼らは後鳥羽の寵童(ちょうどう)であった。

 

 西面の武士について留意しておくべき点は、御家人の義務として天皇を守護する内裏大番役などのため、京には西面に属さない御家人も多数存在していたが、後鳥羽は彼らに対しても命令し動員することが可能であったことである。

 

 たとえば、西面の武士の存在が確認できる以前の建仁3年(1203)の記録では、後鳥羽は在京する御家人たちに命令し、延暦寺の悪僧を攻撃させている。

 

院への奉仕は御家人たちにとって魅力的な行いだった

 

 西面の武士が置かれたのちの建保2年(1214)にも、後鳥羽は在京する御家人たちに命令して興福寺(こうふくじ)の強訴を防がせており、西面の武士が置かれたことによる変化はなかったとされる。

 

 もちろん、西面の武士も京周辺で軍事動員されており、承久元年(1219)の謀反を起こし、大内裏(だいだいり)を炎上させた源頼茂(よりもち/以仁王/もちひとおうの挙兵に参加して討たれた源頼政/よりまさの孫)追討は、西面の武士によって行われている。

 

 とはいえ、現実の武力としての役割はそれほど大きくはなく、通常の活動は、後鳥羽の警護や武芸の披露などであり、いわば親衛隊的な組織だったのである。

 

 そもそも、鎌倉幕府に日本全国の軍事・警察権を付与する命令は、建久2年(1191)年に後白河によって出されたが、形式上は、天皇であった後鳥羽の宣旨(せんじ/命令)として発令されている。こうして後白河最晩年に構築された公武協調の体制を、後鳥羽も受け継ぎ、幕府とは良好な関係にあった。

 

 この点は鎌倉幕府側も同様であり、すでに建久4年には、京都で奉公する御家人には関東で奉公するよりも厚く報いるという命令を発しているのだ。

 

 そして、建保6年には、後鳥羽の日吉社御幸の際に刃傷沙汰を起こした者を佐々木広綱が捕え、その恩賞として従五位下に昇進すると、広綱から報告を受けた将軍・源実朝(さねとも)も、恩賞として近江国松伏別符(現滋賀県近江八幡市カ)を与えた。御家人たちにとって、後鳥羽への奉仕は、朝廷・幕府双方に対しておぼえのめでたい、魅力的な行為だったのである。

 

監修・文/佐伯智広

(『歴史人』202212月号「『承久の乱』と『その後』の鎌倉幕府」より)

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