後鳥羽上皇による三浦胤義の「懐柔」工作
「承久の乱」と鎌倉幕府の「その後」⑨
長江・椋橋両荘地頭職の解任失敗に続いて、上皇は義時により面目を失う

後鳥羽上皇『新三十六歌仙図帖』/東京国立博物館Colbase
建保7年(承久元・1219)正月27日の将軍実朝(さねとも)の暗殺によってそれまで良好に保たれてきた治天の君・後鳥羽(ごとば)上皇と武家の関係が大きく軋みだした。それを先鋭化させたのが次期将軍問題である。
後継将軍は上皇の皇子から選定する方向ですでに動いていたのだが、上皇は「今すぐではない」と事実上の合意撤回を投げつけてきたのだ。さらに上皇は、北条義時が保持していたという摂津国長江(ながえ)・椋橋(くらはし)両荘の地頭職の更迭(こうてつ)を要求して来た。
上皇の強硬姿勢に対して3月15日、義時は千騎の軍勢を北条時房(ときふさ)に付けて上洛させ、両荘地頭職解任の拒否とともに、皇子の即時下向を迫ったのである。その結果、皇子下向こそ許さなかったものの、次期将軍に摂政九条道家(くじょうみちいえ)の子・三寅(みとら)を下向(げこう)させることで交渉は取りあえず妥結した。
しかし、上皇と幕府の確執はそれだけではなかった。承久元年7月に内裏が炎上した。これは大内守護の源頼茂(よりしげ/源三位頼政/よりまさの孫)を上皇が誅伐した時の戦火が原因である。そのため上皇は自ら大内裏(だいだいり)造営を思い立ち、翌年3月に着工した。問題はその財源である。上皇は荘園・公領の別なく諸国に一国平均の内裏造営役を課すよう命じたのである。ところがこれに幕府が反発した。そのため幕府の指揮下にある東国の国衙(こくが)がこれに応じなかったのだ。
長江・椋橋両荘地頭職に続き、またしても義時によって面目を失った上皇は、ついに義時追討を決意するのである。
上皇は藤原秀康を使って三浦胤義を取り込みに動く
承久3年(1221)年、上皇は西面武士(さいめんのぶし)・藤原秀康(ふじわらひでやす)を召し、義時追討の軍勢を集めるよう命じた。そこで秀康はまず幕府宿老三浦義村(よしむら)の弟で、当時在京していた三浦胤義(たねよし)の取り込み工作にかかった。この時の秀康と胤義の密談を慈光寺本『承久記』は次のように描写している。
秀康の屋敷は後鳥羽上皇の御所である高陽院(かやのいん)の北にあった。秀康は自邸に胤義を招き、酒を酌み交わしつつ切り出した。「あなたが三浦一族と鎌倉を打ち捨てて宮仕えするのには何か考えがあるからでしょう。そして院もいま尊いお考えをお持ちです。その時あなたは鎌倉に付きますか、それとも院に随いますか」と。
胤義は「私の妻は故左衛門督・源頼家様の御台所でした。妻は鎌倉殿の若君をもうけていましたが、若君は北条義時の手にかかりました。私は悲嘆に暮れる妻を慰めようと、上洛して鎌倉に反旗を翻(ひるがえ)そうと思ったのです。その私に院宣が下されるとはこの上もない面目です」と応じた。さらに胤義は「このことを書状にしたためて兄義村に知らせましょう。私と兄は一心同体です。三浦が一丸となれば義時を討ち取るのは容易いことでしょう。その時はあなたと私の二人でこの国を治めましょう」とまで語っている。
一族を打ち捨てつつも、兄と一体だと主張する胤義の言葉は矛盾するように思える。しかし、当時の御家人の活動基盤は京都と複数の本拠をつなぐネットワークで成り立っていた。それを一族の分業と競合で機能させていたのである。
物語はそのような御家人社会の実情を少なからず反映させていると読むこともできる。
ともあれ胤義は秀康の誘いに乗った。義時を支える宿老三浦氏の一角を切り崩したと確信した秀康は、胤義取り込みの成功をすぐさま上皇に奏上した。上皇は「神妙である。急ぎ軍議を催せ」と命じた。上皇には自信と確信があったのだ。それは承久元年7月に大内裏を焼いた源頼茂追討事件まで遡る。上皇はこの時、院宣を発して在京御家人と西面武士を結集させ、そして頼茂を追討することができた。その成功体験が義時追討の決断を後押ししたのである。
監修・文/簗瀬大輔
(『歴史人』2022年12月号「『承久の乱』と『その後』の鎌倉幕府」より)