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幕末まで続いた「八田氏」と北条氏に殉じた「安達氏」

「承久の乱」と鎌倉幕府の「その後」⑥

嫡流の小田氏に代わり庶流の宍戸氏が勢威を誇った八田氏

八田知家
頼朝の異母弟・阿野全成を誅殺するなど知略に長けた。後年は隠居し「尊念」と名乗り、土浦市の等覚寺には「筑後入道尊念」願主の銅鐘も残っている。国立国会図書館蔵

 

 八田氏は、藤原氏の流れをくむとされ、宇都宮宗綱(うつのみやむねつな)の子知家(ともいえ)が父宗綱の所領の一つ常陸国新治郡八田を本拠として八田氏と名乗ったとされる。源頼朝による挙兵に従い、平家追討では頼朝の弟源範頼(みなもとののりより)に従って活躍する。こうした功により常陸守護となり、奥州攻めでは、東海道大将軍の大役を与えられている。

 

 頼朝の死後、頼家が2代将軍になって13人による評定会議が開かれると、知家も一員に選ばれた。

 

 承久の乱において、当然のことながら知家自身は幕府方について鎌倉に残った。しかし、知家の庶子知尚(ともひさ)が後鳥羽上皇方についたため、その所領を幕府に没収されてしまう。知家が連座することはなかったが、勢威が衰えたのは否めない。

 

 知家は、承久の乱からほどなく没したようで、家督は知家の嫡男知重(ともしげ)が継いでいる。知重は、本拠を常陸国筑波郡小田に移し、子孫は小田氏を名乗るようになった。

 

 こうして、知家の子孫が発展するなかで、知家の嫡男知重にはじまる小田氏が八田一族の惣領となっていく。しかし、宝治元年(1247)の宝治合戦において、知重の子泰知(やすとも)の妻が三浦泰村の娘であったことから、小田氏は連座してしまう。そのため、常陸守護職も奪われるなど、小田氏の勢威は衰えてしまったのである。

 

 鎌倉幕府の滅亡後、小田氏は足利尊氏に従うものの、南北朝の動乱では後醍醐天皇に従ったことで、常陸守護職は佐竹氏に奪われてしまう。戦国時代には、小田氏治が佐竹氏に対抗するため北条氏と結んだ。そのため、豊臣秀吉の小田原攻めで没落し、のち越前藩主となった結城秀康(ゆうきひでやす)に従い、常陸から離れている。

 

 一方、宝治合戦で小田氏が没落した際に、常陸守護となったのが宍戸(ししど)氏である。宍戸氏は、小田氏の祖である知重の弟家政(いえまさ)の子孫で、常陸国小鶴荘を本拠とし、小鶴荘内の地名であった宍戸から、宍戸氏を名乗っていたものである。

 

 以来、宍戸氏は、惣領の小田氏に比肩する勢威を誇るようになり、しばしば常陸守護に任ぜられている。南北朝時代には、南朝についた小田氏とは異なり、足利尊氏(あしかがたかうじ)の北朝につく。やがて一族は、鎌倉幕府滅亡時の恩賞として賜った安芸国の甲立荘に下向して土着し、戦国時代には有力な国衆となっている。

 

 当初、宍戸氏は毛利氏と対立したものの、最終的には毛利氏と婚姻関係を結んで服属する。こうして安芸の宍戸氏は毛利一門となり、関ヶ原の戦い後は長州藩の家老として残ったのである。

 

北条氏との関係を強固にするも御家人からの反発も大きかった

安達盛長
源頼朝の流人時代からの側近で、挙兵から奥州合戦に従軍。陸奥国安達郡と出羽国大曽根荘などを拝領したが霜月騒動で一族の多くが追討され断絶。国立国会図書館蔵

 安達氏は、藤原北家の祖にあたる藤原房前(ふじわらのふささき)の子魚名(うおな)の子孫と称するが、詳しいことはわかっていない。盛長は、源頼朝の乳母比企尼(ひきのあま)の娘婿であったという縁で頼朝の挙兵以前から従者として近侍し、奥州攻めの恩賞として陸奥国安達郡を拝領し、安達氏を名乗ったとみられる。

 

 頼朝の死により出家したが、2代将軍頼家の代に13人による評定会議が開かれると、盛長もその一員に選ばれた。そして、頼家の補佐役であった梶原景時の弾劾にも関与する。

 

 盛長の死後、子の景盛(かげもり)は娘の松下禅尼(まつしたぜんに)が北条時頼の母となったことで、外戚として勢威を誇った。宝治合戦では北条氏とともに三浦氏を滅ぼし、北条氏に次ぐ地位を得ている。

 

 さらに、景盛の子義景(よしかげ)は、娘の覚山尼(かくさんに)を北条時宗に嫁がせ、生まれた時宗の嫡男貞時(さだとき)の外戚として権勢をふるう。こうした権勢を背景に、義景の子泰盛(やすもり)は評定衆・引付衆に連なり、二度にわたる元寇(げんこう)でも時宗を補佐している。

 

 しかし、こうした安達氏の権勢を抑えようとする勢力が現れた。それが内管領(ないかんれい)の平頼綱(たいらのよりつな)である。

 

 内管領とは、得宗とよばれた北条氏嫡流の執事を指す。このころの幕府の政治は、執権ではなく、得宗によって左右されており、平頼綱は絶大な権力を保持していた。しかも、平頼綱は貞時の乳母の夫であり、貞時の外戚にあたる安達氏は邪魔な存在であったことは疑いない。

 

 時宗が没して貞時が執権になると、平頼綱はついに行動に移す。弘安8年(1285)、安達氏は泰盛の子宗景に謀反の企(くわだ)てがあるとして、追討されてしまったのである。この事件は、11月におきたことにより、霜月騒動とよばれている。

 

 こうして安達氏の嫡流は滅亡するが、永仁元年(1293)、貞時によって平頼綱が追討されると、安達氏の一族である時顕(ときあき)に再興が認められた。時顕は泰盛の異母弟顕盛(あきもり)の孫にあたり、霜月騒動の際には幼児であったため乳母に抱かれて逃げていたらしい。その後、時顕は娘を北条高時に嫁がせて外戚となるが、そのために、鎌倉幕府の滅亡時は、北条氏に殉じている。

 

 なお、時顕の子高景(たかかげ)は、北条氏滅亡後も建武政権に対して反乱を企てたが、津軽で降伏している。その後の動向については定かでない。

 

監修・文/小和田泰経

(『歴史人』202212月号「『承久の乱』と『その後』の鎌倉幕府」より)

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