承久の乱後も続いた「三浦氏」「和田氏」の血脈
「承久の乱」と鎌倉幕府の「その後」③
■宝治合戦と早雲の新井城攻撃で2度も〝北条氏〟に滅ぼされた「三浦氏」

三浦義澄
源頼朝を支え奥州合戦などの功績から鎌倉殿の13人に名を連ねるも、翌年起こった梶原景時の変の平定3日後に病死。義村が跡を継いだ。国立国会図書館蔵
三浦氏の始祖は、桓武(かんむ)平氏の流れをくむ平良文(たいらのよしふみ)の後裔(こうえい)と称するが、確かなことはわからない。平安時代後期に三浦義明(よしあき)が三浦荘を本拠として三浦氏を名乗ったとみられている。
義明の子義澄は、早い段階から源頼朝の挙兵に従った。そして、頼朝の子頼家が2代将軍になって13人による評定会議が開かれると、義澄(よしずみ)も一員に選ばれている。
義澄の死後、子の義村は北条氏と協調して勢威を強めるものの、やがて北条氏と政治の実権をめぐって対立していく。そして、ついには宝治元年(1247)、ときの執権北条時頼の策謀によって義村の子泰村(やすむら)が滅ぼされてしまったのである。
この宝治合戦において、義澄の弟で佐原氏を名乗っていた佐原義連(さわらよしつら)の孫盛時(もりとき)は、惣領である泰村にはつかず北条氏に従っていた。そのため、こののち盛時が三浦氏を継いで一族を再興している。
三浦盛時に始まる三浦氏は、南北朝の動乱では足利尊氏に従い、室町時代には鎌倉府の重鎮として相模守護となる。しかし、鎌倉府に反旗を翻した上杉禅秀(うえすぎぜんしゅう)の乱に加担したことで古河公方足利成氏(しげうじ)によって相模守護を罷免(ひめん)されてしまった。そのため、新たな相模守護となった扇谷(おうぎがやつ)上杉氏に臣従するものの、永正13年(1516)、相模の制圧を図る北条早雲(そううん)に滅ぼされている。
三浦氏の嫡流はここで滅亡しているが、一族の三浦時綱(ときつな)が里見氏を頼って安房(あわ)に逃れ、里見氏から安房国平群郡正木郷を与えられて正木氏を名乗ったという。
ちなみに、正木(まさき)を名乗った時綱の孫が頼忠(よりただ)で、頼忠の娘養珠院(ようじゅいん)はのちに徳川家康の側室となり、紀州徳川家の家祖・徳川頼宣(よりのぶ)、および水戸徳川家の家祖・徳川頼房(よりふさ)の母となった。正木氏のなかには、のちに三浦氏に復姓して幕臣となった一族もいる。
このほか、三浦泰村の兄朝村の子孫は駿河の今川氏に従い、また、泰村の弟家村の子孫は三河の松平氏に従い、それぞれ江戸時代には幕臣となったと伝わる。江戸時代に美作勝山(みまさかかつやま)藩主となった三浦氏も、泰村の弟家村の子孫という。
なお、佐原盛時の兄光盛の子孫は、相模国三浦郡蘆名(あしな)を本拠として蘆名氏と名乗っている。蘆名氏は、やがて相伝した陸奥会津に移り住み、戦国大名になったが、伊達政宗によって滅ぼされてしまった。
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