和歌の天才・後鳥羽上皇と歌人将軍・源実朝の死
「承久の乱」と鎌倉幕府の「その後」①
朝幕の協調関係が鎌倉史上最悪の悲劇をきっかけとして破綻

歌人・源実朝
『小倉百人一首』に自身の歌が選ばれるほど、和歌の才にあふれていた実朝。藤原定家などに求め、鎌倉に歌集を集めていたという。国立国会図書館蔵
和歌を通じて深い関係を結んだことで知られる後鳥羽(ごとば)上皇と源実朝(さねとも)であったが、そもそものきっかけは、建仁3年(1203)の比企氏の乱にあった。このとき、源頼家(実朝の兄)が重病に陥ったことをきっかけに、北条氏は頼家の舅であった比企能員(ひきよしかず)を滅ぼし、実朝を擁立する。
頼家が病死したと北条氏が偽りの報告をしたのに対し、後鳥羽は実朝を征夷大将軍に任命する。まだ元服前であった実朝(幼名は千幡/せんまん)に対し、実朝と名付けたのも後鳥羽であった。
北条氏はさらに元服した実朝の妻の人選を後鳥羽に依頼した。後鳥羽はこれに応じ、坊門信清(ぼうもんのぶきよ)の娘を鎌倉に下向させた。信清は後鳥羽のおじ(母・坊門殖子の弟)であり、別の女子は後鳥羽の妻のひとりとなっていたから、後鳥羽と実朝とは、義理の兄弟の間柄ということになる。
このように、後鳥羽と実朝との関係は、北条氏からの働きかけによるものだった。これを受け入れた後鳥羽の姿勢は、先述したように、後白河法皇以来の協調路線を継承したものだったといえる。元久元年(1204)には、後鳥羽の近臣・源仲章(みなもとのなかあきら)が、実朝の学問の師となっている。
実朝が和歌に興味を持ったきっかけは、後鳥羽の命で編纂された『新古今和歌集(しんこきんわかしゅう)』に、父・源頼朝(みなもとのよりとも)の和歌が採用されたことであった。みずからも和歌を詠むようになった実朝は、都の貴族である飛鳥井雅経(あすかいまさつね)の紹介で、鴨長明(かものちょうめい/随筆『方丈記(ほうじょうき)』の著者)を鎌倉に招いた。
雅経・長明は、いずれも後鳥羽によって和歌所の寄人に選ばれた歌人である。さらに実朝は、『新古今和歌集』の撰者の一人であり、『小倉百人一首』の撰者とも伝えられる藤原定家(ふじわらのていか)に、自作の和歌の添削を受けている。
そして建保元年(1213)、実朝は自作の歌集『金槐和歌集(きんかいわかしゅう)』をまとめた。その最後の一首は「山はさけ 海はあせなむ 世なりとも 君にふた心 わがあらめやも」というものであった。「山が裂け、海が干上がってしまうようなことになっても、私には主君への謀反心など起こることはない」という、主君=後鳥羽への絶対の忠誠を誓う歌である。事実、この年に後鳥羽が西国の実朝の所領に行った臨時課税について、実朝は幕府内での反対を押し切り、課税に応じている。
後鳥羽も実朝の忠誠心に応え、主催した歌会の記録を、みずからの意思で実朝に与えた。
そして、建保6年には、後鳥羽は実朝の求めに応じて、実朝を左近衛大将に任じている。左近衛大将は、父・頼朝の右近衛大将を越える地位というだけでなく、当時、摂関家の後継ぎにのみ許されていた地位であった。実朝は、左近衛大将に任じられることによって、鎌倉将軍家が摂関家に准じる高い家柄であると認められることを求め、後鳥羽も承認した。
この年には北条政子(ほうじょうまさこ)も上洛しているが、その目的は、いまだ男子の生まれていない実朝の後継者として、後鳥羽の男子を鎌倉に迎えるよう、後鳥羽に願い出ることであったと考えられている。実朝だけでなく北条氏にとっても、権力を維持する上で、朝廷に君臨する後鳥羽の権威は不可欠なものであった。
後鳥羽も、出家して尼となっている政子を従三位という高位に叙するという破格の待遇で、これに応えた。
かつては、左近衛大将を経て右大臣に任じられるという実朝の急激な昇進は、分不相応な待遇で災いをもたらさせるための後鳥羽による「官打ち」であると考えられていたが、現在ではそうした見解は否定されている。後鳥羽にとって、公武協調路線は変わらぬ方針であり、その要となる存在こそ実朝であった。その実朝が承久元年(1219)に暗殺されたことによって、後鳥羽と鎌倉幕府の関係は破局へと向かったのである。

『承元御鞠記』『承元御鞠記』は後鳥羽上皇が催した蹴鞠の宴の様子が書かれている。実朝はこの承元御鞠を模して幕府で「幕府御鞠始」を開催している。国立国会図書館蔵

蹴鞠/国立国会図書館蔵
監修・文/佐伯智広