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大江広元の嫡男でありながら承久の乱で官軍に与した親広のその後とは?

鬼滅の戦史102


朝廷と幕府が激突した承久の乱で、幕府方の参謀として功績を挙げたのが大江広元(おおえのひろもと)であった。しかし、広元には東国御家人たちから非難されてしかるべき泣き所があった。それが、官軍に与した嫡男の親広のことである。本来なら斬首されてしかるべきところを、広元の嫡男ということで罪を許された。その後親広はいったい、どのような人生を歩んだのだろうか?


 

鎌倉幕府のブレーン・大江広元の嫡男

大江広元の曽祖父にあたる大江匡房は後三条・白河・堀河天皇の侍読 (じとう) をつとめ歌人としても有名で小倉百人一首にも残る。菊池容斎筆/国立国会図書館蔵

 大江広元といえば、源頼朝の側近として仕えて以来幕府創建に関わり、後に初代別当として活躍した御仁である。朝廷に仕える官人だったこともあって、幕府と朝廷との橋渡し役としての役割も担っていたようである。

 

 その人となりは、ひと言でいえば、「とっつき難い人」。「成人してから、一度も涙を流したことがない」といわれるほど沈着冷静で、しかも頭脳明晰。大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、栗原英雄氏による、終始感情を押し殺したような人物像が、まさに広元のありのままの姿といえるかもしれない。

 

 1221年に起こった承久の乱では、官軍を待ち受けて戦う(遊撃論)より、早急に兵を繰り出して京に攻め入る方(出撃論)が得策との積極策を、北条政子らとともに打ち出した。それが功を奏して、勝利に結びつかせたわけだから、幕府にとっては、功績第一と言っても過言ではない。

承久の乱の舞台となった宇治川。撮影/藤井勝彦

嫡男が官軍に与したものの、敗れて逃走

 

 ところがこの御仁、唯一ともいうべき泣き所があったのをご存知だろうか? それが、嫡子であるはずの親広(ちかひろ)のことである。あろうことか、官軍に与してしまったからだ。

 

 3代将軍・実朝(さねとも)から寺社奉行に任じられて厚遇され、北条義時(ほうじょうよしとき)の娘・竹殿(たけどの)をも娶(めと)って北条氏とも姻戚関係となった。それにもかかわらず、京都守護に任じられて上洛した後に繰り広げられた承久の乱では、父を敵に回して官軍に与し、近江国食渡にて幕府方と戦ったのだ。ただし、戦には敗れて、京に逃げ戻るという失態を演じている。

 

 そんな息子がいたにも関わらず、官軍との決戦を積極的に勧めた父・広元。その時の広元の想いがいかばかりのものだったのか、計り知れないものがありそうだ。

 

 結局、父・広元が属する幕府方が勝者となり、息子・親広が与した官軍が敗者となった。この時の父子の想いもまた、複雑なものだったに違いない。

 

 親広は、その後姿をくらまし、いつの頃か定かではないものの、父の所領・出羽国寒河江荘(でわのくにさがえのしょう)に姿を現したと言い伝えられている。そのまま隠棲(いんせい)したともいわれるが、果たしてどのような想いで暮らしていたのだろうか? これも気になるところである。

 

我が子の罪を見許す甘さ加減

 

 ちなみに、乱終焉後の官軍に与した人物たちの処罰をどうするか、それを取り決めたのは、北条義時と大江広元らである。その内容は「公卿、殿上人は、板東に下し、それ以下の身分の者は、情けをかけることなく全て首をとれ!」という厳しいものであった。

 

 しかも、板東に送られるはずの公卿、殿上人らの中には、その道中、早々と殺害された者も決して少なくなかった。

 

 そんな厳しい取り決めを自ら作成したにも関わらず、親広は父・広元の嫡子ということから、後日赦免されている。厳しい処罰を課して多くの命を奪った張本人が、我が子だけを見逃したのである。身内に甘いと非難されても仕方のない処置であった。これが鎌倉幕府中枢の実態というべきか。

厳しい処罰を課して多くの命を奪った張本人・大江広元は、我が子だけは見逃した。写真は鎌倉の大江広元邸宅跡碑。

幕府の勘気が解かれて築城

 

 それはともあれ、ここからは密かに寒河江荘(現在の山形県西村山郡および寒河江市)へと逃れた親広と、その周辺の人々のその後のお話である。

 

 親広に対する幕府の勘気が解かれたのは、承久の乱から10年余が過ぎた1232年のこととされている。その間、親広の立場がどのようなものだったのかはわからないが、暗黙の了解のもと、しばし息を潜めて暮らしていたのだろう。

 

 父・広元が亡くなった1225年には、その死を悼んで、親広の長男・佐房に阿弥陀像を作らせ、寒河江荘吉川の阿弥陀堂に安置したとか。その際、像の中に広元の遺骨も納めて拝んだのだという。

 

 勘気が解かれた直後に、寒河江荘の内楯(寒河江市丸内)に館を建てているところから鑑みれば、久方ぶりに大手を振って歩けるようになった我が身を祝福する意味合いがあったのかもしれない。

 

 当時はまだ館だけの小規模なものだったかもしれないが、それを前にした親広にとっては、死をも免れ得なかっただけに、晴ればれとした気分だったに違いない。その館跡に建てられたのが、後の寒河江城である。

 

 その後、独自路線を貫こうとする北条氏と他の御家人たちの間で争乱(宝治合戦や霜月騒動など)が続くようになるが、大江氏の多くは、難を避けて寒河江に向かったようである。寒河江氏を名乗って勢力を維持し、南北朝時代には、南朝に与して、一時は足利尊氏(あしかがたかうじ)を九州へと敗走させたこともあった。

 

 ちなみに、広元の四男・季光(すえみつ/親広の兄)の子・経光(つねみつ)が、後に戦国大名として勢威を誇った毛利氏へと系譜を繋げている。毛利氏の家紋「一文字に三つ星」が、大江氏の創出によるものだったことが思い出される。

 

 鎌倉幕府の中枢として活躍した大江広元が勢威を拡大した大江氏は、長男・親広、四男・季光の子らを通じて脈々と系譜をつなぎ、その後数百年もの長きにわたって、勢力を維持し続けたのである。

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藤井勝彦ふじい かつひこ

1955年大阪生まれ。歴史紀行作家・写真家。『日本神話の迷宮』『日本神話の謎を歩く』(天夢人)、『邪馬台国』『三国志合戰事典』『図解三国志』『図解ダーティヒロイン』(新紀元社)、『神々が宿る絶景100』(宝島社)、『写真で見る三国志』『世界遺産 富士山を行く!』『世界の国ぐに ビジュアル事典』(メイツ出版)、『中国の世界遺産』(JTBパブリッシング)など、日本および中国の古代史関連等の書籍を多数出版している。

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