鎌倉9代将軍まで河内源氏の系譜を繋げた、源頼朝の妹・坊門姫
鬼滅の戦史97
あまり知られてはいないが、源頼朝には、坊門姫(ぼうもんひめ)という妹(あるいは姉ともいわれる)がいた。この女性、事績としては何も語られていないが、系譜の上では、実に重要な役割を果たしていた人物であった。9代までの全ての鎌倉将軍と、この女性を介して繋がっていたからである。頼朝の父・義朝から脈々と繋がる源氏の系譜を追いながら、その役割を見直してみたい。
坊門姫は頼朝の妹か姉か?
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九条道家の子で4代将軍・源頼経。『集古十種』松平定信編/国文学研究資料館蔵
鎌倉幕府の源氏将軍は、「頼朝、頼家、実朝の3代で途切れた」というのが通説である。もちろん、これは正しい。しかし、あくまでも男系男子のみで見る限りのことであって、女系をも含めた系譜をたどれば、この限りではない。4代将軍・藤原頼経(ふじわらよりつね)はもとより、9代・守邦(もりくに)親王に至るまで、源氏ゆかりの氏族だったということができるのだ。
その鍵を握るのが、頼朝の同母妹(あるいは姉)・坊門姫である。彼女を介して、その系譜は9代将軍まで繋がっていたのだ。
ちなみに坊門姫の母は、頼朝同様、藤原季範(ふじわらのすえのり)の娘・由良御前(ゆらごぜん)であることは間違いないが、生年は諸説あって定かではない。『吾妻鏡』の記事を信じれば1145年で、高齢出産のための産褥(さんじょく)死によって亡くなったという。享年46であった。
頼朝の生年が1147年であるから、この数値を信じれば、姉ということになる。ただこの時代に、果たして40代半ばにしての出産が可能だったのかどうか疑問視する向きもあり、享年46は36の間違いではないかと指摘されることもある。
一方、『平治物語』を見ると、平治の乱(1159年)の時に6歳だったと記録されている。逆算すれば、その生年は1154年前後のはず。こちらの説が正しければ、頼朝の妹ということになってしまうのだ。
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一条能保と子をなし源氏の系譜を続かせた坊門姫。『前賢故実』菊池容斎筆
/国立国会図書館蔵
坊門姫が源氏の系譜を繋げた?
頼朝(よりとも)の姉か? 妹か? の議論はともあれ、前述したように、この女性の果たした役割は実に大きい。通説では、3代将軍・実朝が、実子をもうけることなく、頼家の次男・公暁に暗殺されてほどなく、源氏将軍はもとより、河内源氏の直系棟梁の血筋までもが途絶えたとみなされている。
もちろん、間違いではないが、あたかも頼朝ゆかりの子孫が全く途絶えてしまったかのような印象を持たれてしまっている。4代以降の将軍に関しても、摂関家の子弟や皇族を迎え入れたとばかりにみなされて、源氏とは縁もゆかりもない氏族が後を継いだかのような印象を与えてしまっているが、少なくとも、これは間違いである。
実のところ、9代将軍まで全て、この坊門姫と血脈はともあれ、系譜の上では繋がっているからだ。
確かに、頼朝の直系は途絶えた。実朝暗殺後、その犯人であった公暁(くぎょう)も捕らえられて処刑。その兄弟の栄実(えいじつ)や禅暁(ぜんぎょう)までもが自害したり殺されたりした時点で、直系として生き残っていたのは、頼朝の庶子・貞暁(じょうぎょう)ただ一人であった。その貞暁も、1231年、46歳で死去。ついに、頼朝の男系男子の子孫は断絶してしまったのである。
さらに、男系女子で最後まで生き残っていたのが、頼家の娘の竹御所(たけのごしょ)であるが、彼女もまた、1234年に産褥死。これによって、頼朝の直系は、完全に断絶してしまったのである。
それでも、頼朝の妹あるいは姉であるこの坊門姫が生き残っていたからこそ、男系男子ではないものの、その父である義朝の子孫として、系譜を繋げることができたのだ。
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平治の乱後、浴室で暗殺される頼朝と坊門姫の父親・源義朝。『絵本武者備考』西川祐信筆/国文学研究資料館蔵
4〜9代鎌倉将軍の系譜とは?
ともあれ、ここからは、3代将軍・実朝の時代から振り返って見ることにしたい。
北条氏によって担ぎ上げられた実朝が、2代将軍・頼家(よりいえ)の次男・公暁に暗殺されて後継者をどうするかで悩んだ幕府は、後鳥羽上皇に上奏して皇族を将軍として迎え入れようとしたようである。
しかし、これを上皇が拒否。そこで苦肉の策として登場させたのが、五摂家(ごせっけ)のひとつ・九条家から迎え入れた九条頼経である。この頼経の両親が、坊門姫の孫であった。当時まだ2歳に過ぎなかった坊門姫のひ孫・三寅である。もちろん幼児に政権運営を委ねるわけにはいかないから、しばらくは北条政子が後見として、将軍代行をして凌いだ。8歳になったところで、急ぎ元服。頼経と名乗って正式に4代目を継いだのである。
この頼経が、わずか13歳にして、16歳も年上だった2代将軍・頼家の娘・竹御所を妻に迎え入れた。彼女は、頼朝の血を引く最後の女性であった。しかし、4年後に竹御所が死去。この時点で、頼朝の血筋が途絶えたと言っていいかもしれない。
ともあれ、夫である頼経は、実権を手にすることもできないまま、39歳の時に赤痢にかかって亡くなっている。その存命中に、執権・北条経時(ほうじょうつねとき)との確執の果てに、将軍職を嫡男の頼嗣(よりつぐ)に譲らざるを得なくなったことは断腸の思いだったに違いない。この5代将軍を継いだ頼嗣の母は藤原親能(ふじわらのちかよし)の娘・大宮殿で、九条家の出身の摂家将軍であった。しかし、彼もまた、わずか14歳にして将軍職を解任されている。
その後、後嵯峨(ごさが)上皇の皇子である宗尊(むねたか)親王が跡を継いで6代将軍となっているが、その後嵯峨上皇の中宮・西園寺姞子(さいおんじきつし)が坊門姫のひ孫ということで、ここでもまだ、系譜の上では、源氏一門と繋がっているのである。
この6代・宗尊親王が、坊門姫の玄孫・近衛宰子(このえさいし)と結ばれて惟康(これやす)親王が誕生。彼が7代目を継ぎ、その娘が嫁いだ久明(ひさあきら)親王が8代目、その間に生まれた守邦親王が9代目を継いでいる。頼朝の直系は途絶えたかもしれないが、その父・義朝からの源氏の系譜は、坊門姫を仲立ちとして、9代に至るまで脈々と繋がっていたのだ。
ただし、守邦親王が9代目を継いだところで、足利高氏(たかうじ/尊氏)や新田義貞(にったよしさだ)らに攻められて、鎌倉幕府は崩壊。両名はともに、河内源氏三代の一人・八幡太郎こと源義家(みなもとのよしいえ)の四男・義国(よしくに)の流れを汲む武人たちであった。源氏はその後も、彼らを通じて脈々と系譜をつなげていくのである。