実朝の暗殺後、幕府・朝廷間に綻びが生じる
「承久の乱」と鎌倉幕府の「その後」③
実朝の後継をめぐる幕府・朝廷の主導権争い

武力を背景として意見を通そうとした幕府に、後鳥羽上皇は不満を持ったと考えられる。北条義時像/国立国会図書館蔵
鎌倉幕府3代将軍・源実朝(さねとも)の暗殺。実朝暗殺は、後鳥羽(ごとば)上皇にも衝撃を与えた。
上皇は実朝の祈祷をしていた陰陽師(おんみょうじ)を全て解任している。かつては、上皇は陰陽師らに実朝を呪い殺す(調伏/ちょうぶく)ことを命じていたとされていた。陰陽師解任は、それを隠蔽するためだったとも言われてきた。しかし、上皇と実朝は良好な関係を築いており、調伏など命じるはずはないとの見解も登場している。よって、陰陽師解任は、実朝の安寧(あんねい)を守護することができなかった上皇の怒りの発露と考えられている。
実朝暗殺は東国でも騒擾(そうじょう)を起こした。建保7年(1219)2月11日、阿野時元(あのときもと)の挙兵である。
時元は、阿野全成(あのぜんじょう/源頼朝の異母弟。実朝の叔父。源頼家により誅殺)の子であった。時元は、駿河国(するがのくに)阿野郡の山中に城を構え、宣旨(せんじ/天皇の命令を伝える文書)を賜り、東国を支配しようとした。将軍になる野心を抱いていたと言えよう。
しかし、その計画は、北条義時が討手を迅速に派遣し、時元を自刃させたために、脆くも潰(つい)え去った。翌年にかけて時元の兄弟や、源頼家の遺児(禅暁/ぜんぎょう)が次々と誅殺(ちゅさつ)された。これは将軍職を狙える者を葬(ほうむ)っていったと見ることができる。幕府としては、早く実朝後継を決定したいところであった。
同年2月13日、北条政子は使者を都に派遣。後鳥羽上皇の皇子・雅成(まさなり)親王と頼仁(よりひと)親王のどちらかを鎌倉に下向させることを求めた。しかし、上皇は「親王2人のうち1人はいずれ必ず下向させよう。が、今すぐにというわけにはいかない」との返答をする。
上皇は(どうして将来、日本国を2つに分けることになることをしようか)との想いを抱いていたという(『愚管抄』)。実朝亡き今、親王を鎌倉に下向させることは日本国を分裂させることになり、断じて受け入れることはできないという考えに上皇はなっていたのである。
上皇の無理難題に対し幕府は武力で応じる
3月9日、上皇の使者・藤原忠綱(ふじわらのただつな)が鎌倉の北条政子の邸に入った。実朝の死を上皇が嘆き悲しんでいることを伝えたのだ。
続いて、忠綱は北条義時と面会。その場で摂津国長江(ながえ)・椋橋(くらはし)両荘の地頭職の罷免(ひめん)を義時に強く要求したのであった。これは幕府への挑発ととることもできよう。両荘は、上皇が寵愛する白拍子(しらびょうし)の亀菊(かめぎく)に与えられていた。
同月12日には、政子の邸で対策会議が開かれ、上皇の要求に急いで回答を出さないと、上皇の機嫌を損ねることになる等と評議された。幕府の回答は「源頼朝が勲功の賞として補任した地頭職を罪もないのに改めることはできない」というものだった。上皇の要求を拒否したのである。将軍と御家人の御恩と奉公の関係を突き崩すことに繋がりかねない上皇の要求を幕府が拒否したのは、当然と言えば当然であった。
幕府は、北条時房(ときふさ)に千騎の軍勢を率いさせ、上洛させて拒否を回答した。これは、武力による恫喝であろう。上皇は、幕府が自分の要求を容れないことに不満を募らせたはずだ。
結局、後継将軍は、大納言・西園寺公経(さいおんじきんつね)のもとで養育されている2歳の若君(三寅/みとら)となる。後の4代将軍・藤原頼経(よりつね)である。
三寅の父は、摂政・九条道家(くじょうみちいえ)。母は西園寺公経の娘・綸子(りんし)である。6月25日、三寅は、北条時房・北条泰時・三浦義村ら迎えの武士たちとともに京・六波羅(ろくはら)を出立。7月19日に鎌倉に到着する。三寅は幼少のため、北条政子が代理で「廉中(れんちゅう)」において諸々を聴断することになった。尼将軍の誕生である。
幕府は、親王を将軍に迎えることを当初考えていたが、結果的には摂家将軍を推戴することになったのだ。当初の目論見とは異なったが、皇族に次ぐ貴種である摂家出身の三寅を推戴することにより、幕府首脳部が求心力を強化させ、幕政を主導できることに変わりはなく、納得できるものであっただろう。
監修・文/濱田浩一郎
(『歴史人』2022年12月号「『承久の乱』と『その後』の鎌倉幕府」より)