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義時への憎悪から起こった「和田義盛の乱」【前編】

鎌倉殿の「大粛清」劇⑱

縄目の恥の次は所領を没収し、義時が挑発を重ねる

2人の息子は前日に赦免されたが、胤常だけは赦免されず、和田義盛は三浦・和田の一族合わせて98人を引き連れ御所南庭に列座し胤長の赦免を嘆願した。国立国会図書館蔵

 

 和田義盛(わだよしもり)自身は「泉親衡(いずみちかひら)の乱」に参画していなかったが、おそらく子息らが陰で何かしていると気づいていた。自身の不甲斐なさを恥じる感情から黙認してきたところ、想定外の大事が出来し、親族を思いやる気持ちから居ても立ってもいられず、みずから行動を起こしたのだろう。

 

 子息2人は赦免されたが、まだ甥(おい)の胤長(たねなが)が残っている。義盛は胤長の赦免も請うべく、日を改めて一族98人を引き連れ陳情に赴くが、今回は実朝との対面もかなわず、思わぬ恥辱にも見舞われた。北条義時の被官(家来)、金窪行親(かなくぼゆきちか)と安東忠家(あんどうただいえ)から軍奉行への身柄引き渡しが、わざわざ和田一族の眼前で行われたのである。後ろ手に縛りあげられる胤長の様子を見せられるだけでも屈辱というのに。『吾妻鏡』によれば、胤長は建暦3年(1213)3月17日、陸奥国岩瀬郡へ流されたという。

 

 謀反人の所領は没収されて当然だが、源頼朝の存命時より、所領が没収された場合、同じ一族の者に与えられるのが慣例であった。義盛もそれを知っていたから、胤長が鎌倉での屋敷地として与えられた大蔵御所の東隣、荏柄社(えがらしゃ)のすぐ前に位置するその土地が御所の宿直を務める際に便利との理由で、御所の女房を通じて拝領を願い出た。

 

 和田一族は胤長の身柄が引き渡された3月9日以来、全員で出仕をボイコットしており、これには実朝も頭を悩ませていた。そこへ義盛から願いが出されたのだから利用しない手はない。義盛の不満を和らげるためにも、実朝は即座に願いを聞き届けた。『吾妻鏡』によれば、同年3月25日のことである。

 

 ところが、それから間もない4月2日、義盛のもとへは何の連絡もないまま、胤長の屋敷地は北条義時に与えられ、義時はそれを被官の金窪行親と安東忠家に分与し、義盛の代官やそれまでの住人たちを強引に追い出した。

 

 これは明らかに「頼朝の先例」を犯す行為で、さすがの『吾妻鏡』も義時をかばい切れず、3月9日の出来事に関して、「義盛の逆進はここに由来する」と記したのに続き、4月2日条には、「断りもなく(義時に)変えられた。(義盛の)逆心はますます抑え難く」と記している。

 

 よりにもよって胤長を辱めた当事者2人にその所領を与えるとは、和田一族の怒りの火に油を注ぐ以外の何物でもなく、幕府の文官でさえ曲筆の仕様がなかったのだろう。

 

和田義盛が一族を連れて嘆願したものの、北条義時は許さず縛りあげた胤長を和田一族の面前で歩かせて、検非違使である二階堂行村に引き渡し、大きな屈辱を与えた。国立国会図書館蔵

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歴史人編集部れきしじんへんしゅうぶ

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