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義時への憎悪から起こった「和田義盛の乱」【後編】

鎌倉殿の「大粛清」劇⑲

勝算はゼロではなかった! 三浦はどちらに付くか

三浦義村は三浦義澄の次男。梶原景時の変では糾弾のための連判状を作成し、比企能員の乱や畠山重忠の乱、そしてこの和田合戦でも義盛を裏切り北条側に付き、義時の盟友と言われている。都立中央図書館蔵

 和田義盛(わだよしもり)には勝算が皆無だったわけではなく、同族の三浦義村(みうらよしむら)が味方してくれれば、勝てる公算が大きかった。

 

 果たして、『吾妻鏡』によれば、三浦義村と胤義(たねよし)の兄弟は和田義盛に与することを承諾。起請文(きしょうもん)まで交わしていた。

 

 三浦兄弟は御所北門の警護にあたると約束していたから、和田勢が南から攻め寄せれば、実朝は北門から逃れるはず。それを三浦勢が確保することで、戦局を一気に傾ける計画だったようである。

 

 しかし、三浦義村には裏切りの前科がある。元久2年6月22日に畠山重保を誅殺したのも彼なら、二俣川(ふたまたがわ)で畠山重忠を待ち受けた軍の中にも彼の姿があり、それでいて翌日にはみずから榛谷重朝(はんがやしげとも/稲毛重成の弟)とその子らを謀殺した上、大河戸(おおごうと)重行(義村の女婿)の子息行元に稲毛重成を誅殺させている。

 

 進んで汚れ役を引き受けながら、途中で北条時政・牧の方から離れ、政子・義時陣営に合流した形だった。

 

 三浦義村の裏切り癖はこの和田合戦においても発揮された。義村は起請文(きしょうもん)の墨が乾く間もなく義時邸に赴き、義盛が挙兵したことを告げたのだった。

 

炎上する実朝の御所 三浦の犬は友をくらう

 

 和田義盛が挙兵に踏み切ったのは建暦3年(1213)5月2日のことである。義時はまだ先のことと読み違え、御所は通常警固のまま。万が一に備え、取り急ぎ北条政子と実朝の御台所(みだいどころ/正室)を北門から逃がし、聖域である鶴岡八幡宮に避難させた。

 

 和田勢が南方向から攻め寄せてきたのは同日未明のこと。『吾妻鏡』によれば、義盛は150の軍勢を三手に分け、御所の南門、北条義時邸の西門と北門に向け進軍させた。

 

 この150という数字は実数なのか、それとも徒歩の郎等を含めず、馬上の武士だけを数えたものか。どちらとも判然としないが、義時が挙兵はまだ先と読んでいたのなら、実数である可能性が高い。少ないからこそ義時の油断を招き、不意を衝くことができる。義盛が初端で一本取った形だった。

 

 勇猛な武者揃いの和田勢のなかもで、ひときわ目立っていたのは和田義盛の3男、朝比奈義秀(あさひなよしひで)だった。

 

 軍記物語の『源平盛衰記』では、木曾義仲(きそよしなか)の愛妾(あいしょう)であった巴御前(ともえごぜん)を生母とするが、年齢の点で辻褄が合わない。あまりの勇猛さにゆえに、母親も只者ではないはずとして、巴御前があてがわれたのだろう。

 

 義秀の戦いぶりはそれほど凄まじく、御所の惣門を破って南庭に乱入したかと思えば、中に立てこもる御家人たちを攻め立て、さらには建物に火を放ち、一宇残らず焼き払ってしまった。

 

 実朝はそうなる前に義時と大江広元(おおえひろもと)に守られながら北門から出て、法華堂(頼朝の持仏堂)へと避難していた。このとき、三浦義村が手筈通りに動いていれば、実朝の身柄を確保できたはずが、義村は約束を違えただけでなく、義時側に加勢して、和田勢と戦闘状態に入っていた。

 

 説話集なのでやや史料的価値は劣るが、『古今著聞集』の巻十五「闘諍」の中に、三浦義村が千葉胤綱(ちばたねつな)から、「三浦の犬は友をくらう(三浦は同族を裏切った)」と詰められる話が見える。

 

 義村と義盛は同じく三浦義明を祖父としたから、二人は従兄弟の関係にあった。三浦氏の家督は義明から義澄、義村と継承されたが、義盛が侍所別当(さむらいどころ べっとう)になったことで、和田氏の勢威は三浦氏を上まわるようになった。

 

 従兄弟であるからこそ、義盛と義村は競合関係にあり、義村からすれば、義盛と母方の従兄弟である北条義時を天秤にかけることに何も問題はない。どちらか一方の滅亡が不可避であれば、自分にとってより都合のよい相手を選ぶのは至極当然のことだったのかもしれない。

歌川豊国が描いた『和田合戦図』。
御所襲撃後、朝比奈義秀(中央)は政所前の橋で義時の甥の足利義氏(左)と遭遇戦となり、割って入った鷹司官者(野田朝季)に遮られたことで義氏を取り逃がす。国立国会図書館蔵

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歴史人編集部れきしじんへんしゅうぶ

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