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東北・九州の雄として血脈が続いた「大江氏」「中原氏」

「承久の乱」と鎌倉幕府の「その後」⑤

管理していた荘園が引継がれ各地へ血脈が散っていった大江氏

大江広元
源頼朝の側近となり大蔵御所公文所(後の政所)の初代別当として、鎌倉幕府を支えた。承久の乱後の1225年に亡くなったとされる。国立国会図書館蔵

 大江氏は、古代の名族土師氏が大枝朝臣(おおえのあそん)の姓を賜り、のち山城国乙訓郡大江郷の名から大江に改めたと伝わる。ただし、広元の出自については、系譜に混乱があるためよくわかっていない。一般的には、大江維光(おおえこれみつ)の子で一時的に中原広季(なかはらひろすえ)の養子になっていたとされている。それが事実であれば、中原親能(なかはらちかよし)とは兄弟として育ったことになる。

 

 広元は源頼朝に招かれて政所の初代別当となるなど、成立期の幕府を支えた。頼朝の死後は北条氏と協調し、義時の死後、その子泰時の執権就任を後押ししたのも広元である。

 

 嘉禄元年(1225)に広元が没すると、その遺領は、子の親広(ちかひろ)・時広(ときひろ)・宗元・季光・忠成(ただしげ)らに継承された。

 

 広元の嫡男親広は、広元から出羽国寒河江荘を受け継いだ。寒河江荘は、頼朝の奥州攻めののち、広元が拝領していたものである。しかし、親広は、承久の乱で後鳥羽上皇方についたため没落し、子孫は鎌倉時代後期に、寒河江荘へ移り住んだとみられる。子孫は寒河江氏・左沢(あてらざわ)氏などと名乗って出羽国内の有力な国人になるが、戦国時代に山形城の最上氏に服属している。

 

 広元の次男時広は、出羽国長井荘を受け継ぎ、長井氏を名乗った。兄の親広が承久の乱で没落したため、長井氏が大江一族の惣領となる。

 

 時広の嫡男泰秀(やすひで)は、北条氏と強調して宝治合戦で三浦氏を滅ぼす。そして泰秀自身が評定衆として幕府の政治に関与する一方、泰秀の弟泰重(やすしげ)は備後(びんご)守護となり、一族は備後国内でも繁栄することとなった。

 

 広元の三男宗元は、 上野国那波(なわ)郡を受け継いで那波氏と名乗った。子孫は室町時代になると、鎌倉府の奉公衆として活躍し、戦国時代には山内上杉氏に従属した。のち北条氏に従い、小田原攻めののちには上杉景勝についたが、当主の那波顕宗(あきむね)が討ち死にして滅亡している。

 

 広元の四男季光は、相模国の毛利荘を本領とし、毛利氏を名乗った。しかし、季光は宝治合戦で三浦氏に味方したことから、毛利荘を没収されてしまう。一族は残された安芸国の吉田荘に移り国衆となった。そして毛利元就の代に戦国大名化を遂げたのである。

 

 なお、北九州に進出した元就は、大友宗麟(おおともそうりん)と覇を競っているが、大江広元・中原親能兄弟の子孫同士で争ったということになる。

 

中原氏は毛利氏や島津氏と覇を争うが秀吉の九州平定後に衰退

 

 中原氏は、儒学や律令の知識をもって朝廷に奉仕した貴族であるが、親能自身の出自については不明な点も多い。一般的には、中原広季の実子とされ、広季の養子となった大江広元とは兄弟だったとされる。

 

 親能は、幼いころに京都ではなく、相模国で育ったという。そのため、源頼朝とは古くから面識があったとみられる。

 

 やがて親能は上京して後白河法皇に仕え、村上源氏(むらかみげんじ)である源雅頼(みなもとのまさより)の家人になっていた。しかし、旧知の頼朝が伊豆で挙兵すると雅頼の館を出奔して頼朝に従い、鎌倉に移っている。もしかしたら、大江広元を頼朝に推薦したのも親能であったかもしれない。

 

 鎌倉幕府の開幕に際しては朝廷との交渉を務め、頼朝の死後は頼家・実朝三代を補佐した。また、九州を管轄する鎮西(ちんぜい)奉行となり、一族が九州で繁栄することになった。

 

 親能は、妻の姻戚にあたる能直を養子として迎えていた。この能親は、相模国大友郷を本領として大友氏を名乗る。子孫は所領のひとつであった豊後(ぶんご)に下向し、豊後大友氏発展の礎を築いた。南北朝の動乱では氏泰(うじやす)が足利尊氏に従って活躍し、豊後・筑後などの守護も兼ねている。

 

 戦国時代には義鎮(よししげ/宗麟/そうりん)が九州6か国を領有する大大名となったものの、薩摩の島津氏に敗れて没落してしまう。江戸時代には、子孫が高家旗本として存続している。

 

 また、親能は姻戚にあたる中原師公の子季公を養子に迎えていたという。門司(もじ)氏の家伝によると、季公の子親房が豊前(ぶぜん)で土着し、門司氏の祖になったという。系譜については不明な点も多いが、南北朝時代には豊前守護となった大内氏に従い、大内氏の滅亡後には毛利氏に属して大友氏と対峙している。

 

 筑後国の三池を本領とした三池氏も、家伝では親能の後裔と称している。戦国時代の三池氏は、大友氏に従って肥前の龍造寺(りゅうぞうじ)氏に対峙したものの、三池城を落とされ、のちには立花宗茂(たちばなむねしげ)の麾下(きか)に入っている。

 

 このほか、親能の一族である師員は、評定衆として鎌倉幕府に重きをなした。この師員の子孫は摂津(せっつ)氏を名乗り、北条氏とも協調し、評定衆・引付衆などの要職にも就いて繁栄している。ただ、こうした北条氏との関係があだとなり、摂津氏の嫡流は鎌倉幕府の滅亡時に北条氏に殉じて滅亡してしまう。

 

 しかし庶流は足利尊氏にも認められて室町幕府の評定衆となっている。戦国時代に活躍した晴門は、伊勢氏・二階堂氏以外で初めての政所頭人になったが、室町幕府の崩壊とともに没落してしまった。

 

監修・文/小和田泰経

(『歴史人』202212月号「『承久の乱』と『その後』の鎌倉幕府」より)

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