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後鳥羽上皇の大内裏再建計画はなぜ失敗に終わったのか?

「承久の乱」と鎌倉幕府の「その後」⑧

大内裏再建への激しい抵抗に、後鳥羽上皇の不満が募る

慈円
愚管抄作者。後鳥羽上皇の王権復活に関する熱意に対して、周囲は冷ややかであったようだ。『小倉百人一首』国立国会図書館蔵

 承久元年(1219)7月、源頼茂(みなもとのよりもち)の謀反により、内裏(だいり)は焼失した。内裏焼失の直後から、後鳥羽(ごとば)上皇は再建の動きに出ている。内裏造営は、白河・鳥羽院の時代には放置されていたが、上皇は再建に執念を燃やした。それは、慈円(じえん/鎌倉時代初期の僧侶。愚管抄の著者)が「不審」(『愚管抄』)と思うほどだった。

 

 後鳥羽上皇は、皇位のしるしとして、代々の天皇が伝承する三種の神器(八咫鏡/やたのかがみ・草薙剣/くさなぎのつるぎ・八尺瓊勾玉/やさかにのまがたま)が平家に持ち去られている状況で即位している。想像を逞(たくま)しくすれば、そのコンプレックスから内裏再建に執心したのかもしれない。

 

 しかし、内裏再建には、膨大な費用がかかることは、言うまでもない。費用をどのように調達したかといえば、荘園や公領(国衙/こくが/領。国衙は、国司が執務する役所)に臨時の租税を課したのである(造内裏役)。五畿内(大和/やまと、山城/やましろ、河内/かわち、和泉/いずみ、摂津/せっつ国)や東海・北陸・九州に賦課(ふか)されたこと判明しているが、国家的大事業であることが分かるだろう。

 

 だが、生産可能な田の数がかなり減ってしまい、指示通りに納入することが難しいことを訴える事例(摂津国田尻荘)もあった。他にも「免除特権がある」とか「課役を納める上で支障がある」とか「地頭が命令に従わない」とか数々の理由をつけ、造内裏役を拒否する動きも見られた。

 

激しい反発の果てに……悲願の内裏再建は頓挫する

 

 それでも、承久2年(1220)10月中旬には、何とか、内裏の殿舎・門・廊などの立柱(りっちゅう)・上棟(じょうとう)の儀式に漕ぎ着けることができた。12月上旬には、檜皮葺始(ひわだぶきはじめ)が行われている。

 

 そして同年12月中には、造内裏(ぞうだいり)行事所は解散したと思われる。今回の造営は、それまでの造営に比べて、院宣発給から上棟までの時間がかなり掛かっている。後鳥羽上皇の熱意とは裏腹に、周囲は冷めていたことが垣間見えよう。殿舎の完成ではなく、檜皮葺始の後、造営を中止したこともそのことを示していよう。

 

 最終的に内裏造営は、承久の乱に後鳥羽上皇が敗れたことにより、再開されず、中途半端な形になってしまった。越後・加賀の2カ国では、坂東の地頭が造内裏役を拒否したという。越後の守護は北条義時(よしとき)、加賀の守護は北条朝時(ともとき/義時の次男)であった。この事も、後鳥羽上皇の神経を苛立たせたかもしれない。それとともに、鎌倉幕府をコントロールできないことに不満を募らせていったはずだ。

 

後鳥羽上皇の怒りが頂点に達し、義時追討を決意

 

 承久2年(1220)12月、後鳥羽上皇の近臣・尊長(そんちょう/法勝寺/ほっしょうじの執行)が出羽国羽黒山(でわのくにはぐろさん)総長吏に任命された。羽黒山は、修験道(しゅげんどう)の本場であり、上皇は尊長に関東調伏を命じた可能性もある。

 

 同年10月には、上皇は京都鳥羽の城南寺(じょうなんじ)に滞在している。城南寺では、仏事や流鏑馬が行われており、その際には、近国の武士たちが招集されていた。上皇は、城南寺での御幸を繰り返し、度々、武士を招集させることにより、挙兵に向けての準備をしていたのかもしれない。

 

 その頃、鎌倉では火事や災害が続発していた。承久2年2月には、2度の大火、3月にも火災が起きた。9月・10月・12月にも火事が起こった。前年12月には、大風が起こり、北条時房の新築の邸が倒壊する。幕府は度重なる災害もあって、後鳥羽上皇の企てに気が付かなかった可能性もある(何より、この頃の朝廷と幕府の関係は『吾妻鏡』にも詳しいことは記されていない。朝幕間の関係は悪化の一途を辿っていたと言えよう)。

 

 承久3年(1221)になると、上皇は鳥羽の城南寺で笠懸(かさがけ/馬上から的に鏑矢/かぶらやを放ち的を射る儀式)を行わせた(1月27日)。そして、2月4日には、熊野詣(くまのもうで)を行う。この時、上皇は北条義時追討の成就を祈願した可能性もある。

 

 そもそも後鳥羽上皇はなぜ義時を打倒したいかと言えば、幕府を自分の思うようにコントロールしたいからである(逆に言えば、幕府を思うように操縦できなかったからだ)。実質的に幕府を動かしているのは、北条義時であると上皇は認識していた。義時を打倒しない限り、幕府を上皇が自由にコントロールすることはできない。こうした上皇の想いが、ついに承久の乱へと繋がっていくのである。

 

 かつて、上皇が目指したのは、倒幕だったと言われてきた。しかし、最近では北条義時を打倒することがメインだったのではないかという説も提出されている。

 

 承久の乱の前年(1220)、上皇は、藤原定家(ふじわらのさだいえ/ていか)が提出した歌の一首(道のべの野原の柳したもえぬ あはれ歎の煙くらべに)に激怒。定家に謹慎処分を言い渡す。「野原の柳が春となり下萌えしたが、私の暗くくすぶる嘆きの煙と競い合うようである」との歌意。7年前、定家の邸の柳が強制的に院の住居に移植されたことがあったが、上皇はそれを非難されたと感じ取り、怒ったのであろう。些細なことで怒り、感情の抑制が効かなくなっていると見ることもできよう。承久の乱はそのような上皇の精神状態のなか勃発したのである。

 

監修・文/濱田浩一郎

(『歴史人』202212月号「『承久の乱』と『その後』の鎌倉幕府」より)

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