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「源頼茂の乱」をめぐる後鳥羽上皇の思惑

頼朝亡き後の謀反・抗争を巡る謎⑬


12月11日(日)放送の『鎌倉殿の13人』第47回「ある朝敵、ある演説」では、ついに後鳥羽上皇(ごとばじょうこう/尾上松也)が鎌倉の執権・北条義時(ほうじょうよしとき/小栗旬)を討つべく、挙兵した。創設以来の最大の危機を迎えた鎌倉では、朝敵となった義時が覚悟を決めていた。


 

御家人の胸を打った尼将軍・北条政子の演説

島根県西ノ島町にある焼火神社。隠岐へ向かう途中に後鳥羽上皇が遭難した際、御神火が導いて救ったと伝わっており、海上の守護神として信仰されている。国の重要文化財。

 京の御家人である源頼茂(みなもとのよりもち/井上ミョンジュ)が、次期鎌倉殿に三寅(みとら/中村龍太郎)が就任したことを不服として挙兵した。その煽りを食って、天皇の住まいであり、朝廷の象徴である内裏(だいり)が焼失する。

 

 激怒した後鳥羽上皇は、再建のための費用を幕府に要求した。朝廷と御家人との間の板挟みにして、執権の北条義時を孤立させる企みだ。

 

 上皇の狙い通り、費用の捻出を拒否する義時と、朝廷の顔色をうかがう御家人との間に亀裂が入り始める。幕府の重臣である三浦義村(みうらよしむら/山本耕史)は、これを機に上皇と接近。義時に不満を抱える御家人を束ね、幕府転覆を図る。

 

 一方、上皇は鎌倉から派遣されていた京都守護を襲撃することで義時に宣戦布告。挙兵と同時に、義村をはじめ、複数の御家人に朝廷に味方するよう院宣(いんぜん)を出した。

 

 御家人らに出された院宣を手に入れた義時は、上皇の望みが鎌倉を攻め滅ぼすことではなく、自身の首を獲ることと知る。嫡男の北条泰時(やすとき/坂口健太郎)や弟の北条時房(ときふさ/瀬戸康史)を集めて後事を託し、義時は京に出頭することを伝えた。鎌倉が戦場になるのを避けるため、命を差し出す覚悟だ。

 

 御家人を集めた義時が自身の決意を口にしようとした瞬間、その場に義時の姉である尼将軍・北条政子(まさこ/小池栄子)が現れ、遮る。

 

 政子は源頼朝が創り、義時が命がけで守った鎌倉を坂東武者のものにするため、上皇に従うか、戦うかの二者択一を御家人らに迫った。徹底抗戦を掲げ、鬼気迫る政子の呼びかけに心を打たれた御家人は、賛同の雄叫びを上げた。

 

朝廷と鎌倉幕府の決定的な決裂の瞬間

 

 源頼茂は、摂津源氏の系譜にある源氏一門。頼茂の父は大内守護という、内裏を警固する役割を担っており、この役目は代々、摂津源氏が世襲していた。なお、祖父の頼政(よりまさ)は平家に対抗すべく以仁王(もちひとおう)とともに挙兵した人物で、平等院(京都府宇治市)で自害している。

 

 頼茂も摂津源氏として大内守護を務めている。後鳥羽上皇の近臣という顔を持ちながら、一方で鎌倉幕府では大江広元(おおえひろもと)や大内惟信(おおうちこれのぶ)らとともに政所別当に任じられるなど、朝廷と幕府の架け橋のような役割を担った側面もあった。

 

 頼茂が挙兵した時期は、三寅が将軍予定者として鎌倉に向かった頃のこと。南北朝時代に成立したとされる歴史書『保暦間記』、あるいは天台宗の僧侶・慈円(じえん)の記した歴史書『愚管抄』では、「将軍位を望んだ」と、頼茂挙兵の動機を記している。

 

 三寅は鎌倉幕府の創設者である源頼朝(みなもとのよりとも)と遠縁だが、かろうじて将軍就任の条件には合致しているように見える。しかし、三寅は当時わずか2歳。北条氏の傀儡(かいらい)政権となることは目に見えており、御家人たちのなかに不平を持つ者が少なからずいたとしても不思議ではない。

 

 一方、頼茂は名門である摂津源氏のひとり。次の将軍は自分、と自認してもおかしくはない。空位となっていた将軍の座に、幼き三寅が就こうとしていたタイミングということもあって、挙兵の動機としても頷ける。

 

 だが、鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡』では、頼茂の挙兵を「朝廷の叡慮に背いたため」攻撃を受けた、としている。「将軍位を望んだ」という頼茂の野心については記されていない。

 

 一説によれば、この頃、すでに後鳥羽上皇は倒幕の計画を立てており、幕府と距離の近い頼茂から計画が漏れる恐れが出てきたために兵を向けた、という。

 

 事実、この頃の後鳥羽上皇は西面の武士の整備など、軍事面の増強を図っており、義時討伐に向けて着々と準備を進めていた節がある。

 

『愚管抄』では、頼茂の将軍への野心が発覚し、後鳥羽上皇が呼び出したところ頼茂が応じなかったために攻撃した、とある。これが『吾妻鏡』のいう「叡慮に背いた」ことにあたるのかどうかは分からない。

 

 いずれにせよ、先祖代々内裏を警固する役割を担ってきた頼茂によって内裏に火を放たれ、挙兵は失敗。頼茂は自害し、建物はほぼ焼失してしまう。

 

 朝廷の象徴ともいえる内裏の無残な姿に、後鳥羽上皇はひどく心を痛め、しばらく病に臥せたといわれている。

 

 なお、後鳥羽上皇は内裏の再建にこだわったが、当時の天皇は他の場所で生活しており、内裏についてはほとんど使われていなかった。ごくたまに儀式などに利用される程度だったという。

 

 それでも上皇が再建に固執したのはなぜなのか。実は、3代将軍・源実朝の代に幕府は閑院内裏の造営に積極的に協力している。上皇はこの時の幕府の姿勢と、義時政権下の幕府との比較を試みたのかもしれない。

 

 その結果が承久の乱につながった、と見るのは穿ち過ぎかもしれないが、いずれにせよ、武士の手による内裏焼失は、朝廷と幕府との間に決定的な決裂をもたらしたのである。

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小野 雅彦おの まさひこ

秋田県出身。戦国時代や幕末など、日本史にまつわる記事を中心に雑誌やムックなどで執筆。近著に『「最弱」徳川家臣団の天下取り』(エムディエヌコーポレーション/矢部健太郎監修/2023)、執筆協力『歴史人物名鑑 徳川家康と最強の家臣団』(東京ニュース通信社/2022)などがある。

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