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鎌倉幕府で絶大な権勢を誇った北条氏の成り立ちと鎌倉以降の歴史とは⁉

今月の歴史人 Part.4


2022年大河ドラマにて北条義時が主人公となり、その一族たちにもスポットライトが当たった「北条氏」。その成り立ちはいかなるものであり、また鎌倉時代を経て、どのような歴史を紡いだのかをここでは紹介する。


 

■平貞盛の後裔にされる北条氏は鎌倉幕府にて絶大な権力を有した

 

北条義時時政追放後、政所別当となり三浦義村とともに和田合戦にて和田義盛を粛清。幕府を支える強固な執権体制を整えた。国立国会図書館蔵

北条義時時政追放後、政所別当となり三浦義村とともに和田合戦にて和田義盛を粛清。幕府を支える強固な執権体制を整えた。国立国会図書館蔵

 

 北条氏は、平将門を討った平貞盛の後裔と伝えられ、伊豆国田方郡北条を本領とし、北条氏を名乗ったという。北条時政は、娘婿の源頼朝に従い、鎌倉幕府が開かれたあとには有力御家人として活躍する。

 

 頼家が将軍となって宿老13人による評定会議が開かれると、時政はもちろん、子の義時も一員となる。一族のなかからふたりが選ばれているのは北条氏だけだった。時政はともかく、まだ若い義時が入っていることについては、時政に加えられたものなのか、別々な立場から選ばれたものなのか、意見がわかれている。

 

北条時政後妻・牧の方による、実朝を暗殺して平賀朝雅を擁立する計画(牧の方事件)が北条政子・義時に阻止され、伊豆に追放。東京都立図書館蔵

北条時政後妻・牧の方による、実朝を暗殺して平賀朝雅を擁立する計画(牧の方事件)が北条政子・義時に阻止され、伊豆に追放。東京都立図書館蔵

 

 その後、頼家に長男の一幡が誕生すると、その外戚にあたる比企能員の権勢が強まり、北条氏と対立することになった。結局、建仁3年(1203)、時政は比企能員を自邸に招いて謀殺して比企氏を族滅に追い込む。そして、頼家の弟実朝を将軍とした時政は、自ら政所別当となり、御家人の筆頭となった。こうした北条氏の地位は、のちに執権と呼ばれる。執権とは、「政治の権を執る」という意味である。

 

 さらに時政は、元久3年(1205)に有力御家人の畠山重忠を謀反の罪で滅ぼす。ところが、娘婿の平賀朝雅を新たな将軍に擁立しようとして失敗してしまう。これにより時政が失脚したのち、政所別当として辣腕を振るったのが義時である。

 

 義時は、建暦3年(1213)に侍所別当であった和田義盛を、いわゆる和田合戦で滅ぼすと、政所・侍所両別当職を兼務する。そして将軍実朝が暗殺されると、以来、政所・侍所の別当を独占した北条氏が、幕府の実権を握っていく。

 

 泰時の孫時頼は、宝治元年(1247)の宝治合戦で三浦氏を滅ぼす。こうして執権政治を確立した北条氏は、京都から摂家将軍・親王将軍を迎えるなど、形式的に鎌倉殿を奉じて幕政を専断したのである。

 

 時頼の子時宗は2度にわたり元寇を凌しのいだが、時宗の孫高時のとき、後醍醐天皇の討幕に多くの御家人が呼応したことで幕府は滅亡してしまう。その後、鎌倉から脱出していた高時の遺児時行が、信濃の諏訪で兵を挙げ、いったんは鎌倉の奪還に成功した。そして、南北朝の動乱では後醍醐天皇に降伏して赦免されたものの、足利尊氏に捕らえられて処刑されている。これにより、北条氏の嫡流は絶えてしまったのである。

 

 なお、中先代の乱からおよそ200年後、関東において北条早雲に始まる北条氏が覇権を握ったが、時政・義時の子孫ではない。

 

北条氏に関する年表

 

監修・文/小和田泰経

『歴史人』12月号「承久の乱とその後の鎌倉幕府」より)

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