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元寇のモンゴル軍撤退は「神風」が理由ではなかった⁉[日本史の新常識]

今月の歴史人 Part.3


歴史の研究は日々進んでいる。わたしたちが教科書で習った史実も日々塗り替わっている。ここでは元寇において、元軍が暴風雨で大きな被害を受けて撤退したという有名な「神風」伝説に関する新説を紹介。暴風雨と関係なく、元軍は10月末までに撤退した。季節風到来で合戦継続を断念した説や、元々の目的が威力偵察だったとする説がある。


 

■元軍撤退理由は? 変わってきた教科書の記載

『蒙古襲来絵巻(模本)』 これまで元寇は「神風」が吹き荒れたことで、モンゴル軍が撤退したことが日本勝利の要因とされてきた。東京国立博物館蔵/出典:Colbase

『蒙古襲来絵巻(模本)』 これまで元寇は「神風」が吹き荒れたことで、モンゴル軍が撤退したことが日本勝利の要因とされてきた。東京国立博物館蔵/出典:Colbase

 

 日本は鎌倉時代中期に、元国から2度にわたる大規模な攻撃を受けた。文永の役、弘安の役、いわゆる蒙古襲来(元寇)である。この蒙古襲来は、神風(大暴風雨)により退けられたと長く信じられてきた。昭和の教科書においては「元は、1274年(文永の役)と、1281年(弘安の役)との2度にわたり、大軍を送って、北九州へ攻めてきた。さいわい2度とも暴風がおそい、元軍は全滅に近い打撃を受けて退いた」とある。しかし、近年では、こうした記述は歴史教科書でも見られない。その理由、蒙古襲来の実像に迫ってみたい。

 

蒙古襲来関連年表

 

 文永の役では、嵐により元軍が一夜で退却したと信じられてきたが、そのような記述の「歴史書」はない。だが、一夜で姿を消したと記している書物はある。愚かな子供にも八幡神の神徳を説くとした霊験記『八幡愚童訓』である。同書には「夜中に、白張装束を着た30人ばかりが、筥崎宮から出てきた。彼らは蒙古軍に矢を射かけた。その事で、身の毛がよだった蒙古軍は、海が燃えている、船も燃えてしまうぞと浮き足立ち、我先に逃げ出した」というような事が書いてある。そして、翌朝には元軍の姿は見えなくなっていたという。『八幡愚童訓』のこの記述を史実ではなく曲筆であると見做す見解は戦前よりあった。しかし、当時の貴族・広橋兼仲の日記『勘仲記』にも「急な逆風が吹いて、凶賊が本国に帰った。逆風のことは神の御加護である」(11月6日条)とあることや、『高麗史』に「たまたま、夜、大いに風ふき雨ふる」と記されている事によって信じられてきた。だが、季節は冬で、台風の時期は既に過ぎているので、各種史料が記すような事はあり得ないと言われている(ただし、異常気象の可能性は指摘されている)。また、『高麗史』の一文にしても、大風雨の記載はあるが、いつ吹いたのかは書かれていない(元軍が日本に滞在している時に吹いたという説と、撤退中に吹いたという2説がある)。

 

 このような事から現在では、文永の役においては、元軍は帰還途中で、突風に吹かれたのではないかとする説(元軍は、日本を占領するつもりはなく、威力偵察や相手に恐怖を与えて交渉の席につかせるために侵攻したという。元軍は目的を達成したため、自主的に撤退したという説も提示されている)。もう1つは、元軍は日本滞在中に嵐に遭い、それ以上の滞在は補給も滞り、全滅という最悪の事態を危惧して撤退したという説が提示されている。

 

弘安の役で出陣する竹崎季長弘安の役の際に出陣する馬上の竹崎季長が描かれている。季長は自身の戦いが武功として後に認められた御家人。後ろには生いきの松まつ原ばらの防塁が見える。その上に陣を構えるのは菊池武たけ房ふさ。『蒙古襲来絵巻』(模本)東京国立博物館蔵/ColBase

弘安の役で出陣する竹崎季長弘安の役の際に出陣する馬上の竹崎季長が描かれている。季長は自身の戦いが武功として後に認められた御家人。後ろには生いきの松原の防塁が見える。その上に陣を構えるのは菊池武房。『蒙古襲来絵巻』(模本)東京国立博物館蔵/ColBase

 

 一方、弘安の役においては、閏7月1日頃に確かに台風はやって来た。元軍は手痛い打撃を受けるも、以降も日本軍と元軍との戦(7月5日に博多湾・志賀島沖での海戦。7月7日には鷹島沖の海戦)は続いていることからも、台風によって撤退したわけではなかった(台風は、日本側の船にも打撃を与えていた)。

 

 台風後の戦で、苦戦しつつも日本側が勝利した事が、元軍に戦の継続は不可能と判断させ、撤退へと導いた。元軍撤退は、鎌倉時代の武士たちの奮戦の賜物だったのだ。このようなこともあり、近年の歴史教科書には「蒙古襲来が失敗に終わった理由として、武士たちが勇敢に戦ったこと、暴風雨がたまたまおこったことのほかに、高麗・南宋の人びとが元の支配に抵抗していたことなどがあげられる」(『高校日本史B』山川出版社、2014年)と記されるようになった。神風をメインとするのではなく、御家人や高麗の人々の奮戦・抵抗に重きを置くようになってきたのだ。

 

 私は最近、国宝の『蒙古襲来絵詞』を見た。これは肥後国の御家人・竹崎季長が元寇における自分の戦いを描かせたものとされている。そこには「てつはう」(火薬を利用した武器)が炸裂するなか、矢傷で血を流す馬に乗り、蒙古兵に突進する季長の様が描かれていた。辺りには首がない蒙古兵の姿も描かれており、激戦の様が窺える。蒙古襲来の凄まじさ、御家人たちの奮闘ぶりが、この絵巻から改めて伝わってくる。

 

監修・文/濱田浩一郎

『歴史人』11月号「日本史の新常識」より)

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歴史人編集部れきしじんへんしゅうぶ

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