朝幕関係を逆転させた「承久の乱」
頼朝亡き後の謀反・抗争を巡る謎⑭
12月18日(日)放送の『鎌倉殿の13人』最終回「報いの時」では、後鳥羽上皇(ごとばじょうこう/尾上松也)と鎌倉幕府執権・北条義時(ほうじょうよしとき/小栗旬)との対決が描かれた。戦後、義時が病に倒れると、義時の嫡男・北条泰時(やすとき/坂口健太郎)ら、次の世代が新しい世をつくるために立ち上がった。

神奈川県鎌倉市にある北条義時の墳墓の跡地とされる場所。『吾妻鏡』によれば、義時は初代将軍・源頼朝の墓所である法華堂の東の山上に葬られている。なお法華堂は、宝治元(1247)年に北条氏と争った三浦一族が立てこもり、自決した場所でもある。三浦氏はこの時に滅亡した。
執権・北条義時が迎えた最期の時
尼将軍・北条政子(まさこ/小池栄子)の演説を受け、坂東武者たちは朝廷との戦いに立ち上がった。しかし、実のところは坂東を離れ、京を攻め込むのには二の足を踏む武士たちも少なくない。
執権・北条義時は嫡男の北条泰時を先発隊として、京に向かわせる。義時は、出陣時は少人数でも、やがて味方する御家人が出てくることを見越し、鎌倉幕府初代将軍・源頼朝の事例を持ち出して泰時に鎌倉の命運を託した。
義時の寝首をかこうと策謀をめぐらす御家人の三浦義村(みうらよしむら/山本耕史)の予想に反し、付き従った兵の数は1万。迎え撃つ官軍は、鎌倉軍の気迫に圧倒され、後退に後退を重ねた結果、ついに敗北した。
義時は、後鳥羽上皇に隠岐(おき)への流罪を言い渡す。皇族を流罪に処すという大悪人の汚名を、義時は1人被(こうむ)る覚悟であった。
こうして鎌倉は平穏を取り戻したが、義時が突如、病に倒れる。医者(康すおん)の見立てによれば、毒によるものだという。
毒を盛ったのが妻ののえ(菊地凛子)と見抜いた義時は、のえを屋敷から追い出す。のえは最後に、毒を盛ったのは自分だが、毒を用意したのは三浦義村だと言い残して去って行った。
義村を呼び出した義時は、偽りのない義村の真意を聞き出す。長年の権力闘争の中でこじれた義村の野心だったが、やがて、かつての盟友の顔を取り戻し、改めて北条氏を支えると告げた。
体調の悪化が止まらない義時のもとを、姉の政子が見舞いに訪れる。義時は、嫡男・泰時のためになお自らの手を汚そうとしていた。告白を受けた政子は、義時が服用する薬を渡すのを拒み、義時が苦悶の中で息を引き取るのを、涙しながら見守った。
敵と味方に分かれた三浦兄弟の明暗
承久3年(1221)5月15日、後鳥羽上皇が北条義時追討の院宣(いんぜん)と官宣旨(かんせんじ)を下したことにより、承久の乱は勃発した。
承久の乱を描いた軍記『承久記』によれば、院宣は武田信光(たけだのぶみつ)、小笠原長清(おがさわらながきよ)、小山朝政(おやまともまさ)、宇都宮頼綱(うつのみやよりつな)、長沼宗政(ながぬまむねまさ)、足利義氏(あしかがよしうじ)、北条時房(ほうじょうときふさ)、三浦義村の8名に送られている。
義時の弟である時房や義村含め、いずれも幕府の有力者。後鳥羽上皇は彼らが朝廷に味方しようとしまいと、院宣が送られたという既成事実によって幕府内部に揺さぶりをかけようとしたのではないか、と考えられている。
しかし、三浦義村は、すぐさま京からの使者を追い返し、義時に通報している(『吾妻鏡』)。幕府が合戦に対する備えが早くからできたのは、義村の機転のおかげということになる。
幕府首脳は、積極的に京に攻め込む攻勢論と、鎌倉にやってくる官軍を迎え撃つ迎撃論の2つに分かれて議論が行なわれたようだ。これに対し、京に攻め込まなければ意味がない、と強硬に主張したのが尼将軍・北条政子だった(『吾妻鏡』)。
上洛する幕府軍が19万に膨れ上がったとするのは鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』によるものだが、『承久記』においてもほぼ同数の兵力が記されており、そのままの数字を信用することはできないものの、官軍を大幅に上回る兵が幕府のもとに集ったことは間違いなさそうである。
圧倒的な兵力差に加え、統率の取れていない官軍はあっさりと敗北。後鳥羽上皇は藤原秀康(ふじわらのひでやす)と三浦胤義(たねよし)らに責任を押し付け、上洛してきた北条泰時に弁明した(『吾妻鏡』)。
朝廷の後ろ盾を失った秀康は戦場から逃亡したものの、まもなく捕らえられて斬首。皮肉なことに、胤義は兄の義村の軍勢と戦うこととなり、敗北した末に自害した。義村は、その首を義時に届けている。
この戦いで幕府が勝利したことは大きな意味を持つ。朝廷と幕府の関係が根底から覆ることになったからだ。それまで朝廷の意向に従うことがほとんどだった幕府だったが、この後は逆に朝廷が幕府の顔色をうかがうことになる。天皇の皇位継承に関与することが常態化するほど、幕府の権力は開幕以降、最大に高まったのである。
さて、承久の乱から3年後の貞応3(1224)年6月13日、執権の北条義時は病死した。享年62。あまりに突然の死だったことから、現在でも毒殺説がささやかれている。
『吾妻鏡』にはかねてから脚気を患っていた、とあるが、歌人である藤原定家の日記『明月記』では、伊賀の方(劇中では「のえ」)が毒殺したという噂を紹介している。
事実、伊賀の方は義時の死とともに、息子の北条政村を執権に擁立しようと画策した謀反未遂を起こしており、疑われる素地はある。
また、南北朝時代に成立したとされる『保暦間記』では、義時は近習に殺害されたとしているが、毒殺にせよ、他殺にせよ、義時が病死ではないとする証拠は現在のところ見つかっていない。