いじめられていたわけではない!? 織田家人質時代の徳川家康と織田信長の関係性
徳川家康の「真実」①
今川家の人質となる以前、徳川家康は織田家の人質として過ごしていた時期があった。このころに出会っていたであろう信長と家康の関係は、その後のふたりに影響があったのだろうか?
■織田信秀の人質だった家康

かつて織田信長が居城とした那古野城。信長がこの城で過ごしていたころに家康は織田家の人質であった。
松平竹千代(まつだいらたけちよ)といっていた後の徳川家康(とくがわいえやす)が、若い頃、今川義元(いまがわよしもと)の人質となっていたことはよく知られている。実はその前、2年間と期間は短かったが尾張の織田信秀(おだのぶひで)の人質となっていたのである。
これまでの通説では、竹千代の父松平広忠(ひろただ)が、今川義元の保護を受けるため、竹千代を駿府に送ろうとしたところ、途中で騙(だま)され拉致(らち)されたとされてきた。ところが、騙されたのではなく、広忠が信秀と戦って負けたため、わが子竹千代を人質に出したとする研究も出てきて、議論になっているところである。
いずれにせよ、竹千代は、6歳から8歳まで、織田信秀の人質として尾張(おわり)にいたことはまちがいない。その人質屋敷は最初、熱田(あつた)にあったということなので、当時、那古野城(なごやじょう)にいた信秀の子信長(のぶなが)と竹千代との出会いがあったことは十分考えられる。もしかしたら、信長の妹お市(いち)の方(かた)との出会いもあったかもしれない。
信長のことをよく「尾張の大うつけ」などというが、「うつけ」は「空」とか「虚」と書き、要するに頭が空っぽ、馬鹿の意味にとらえられている。しかし、それはまちがいで、信長の常識はずれの言行(げんこう)に、周囲の大人がついていけなかっただけである。その信長を8歳年下の竹千代がどのようにみていたのか史料がないのでわからないが、いじめられたり、意地悪されるようなことはなかったのではないかと思われる。いやな思い出があれば、後年、同盟を結ぶことに躊躇(ちゅうちょ)したのではないかと考えられるからである。
竹千代が8歳になった天文18年(1549)、人質交換によって改めて今川義元の人質となって駿府(すんぷ)に送られることになった。それから19歳までを今川人質時代とよんでいるが、ふつうの人質ではなく、どちらかといえば優遇された人質だった。今川義元の軍師だった雪斎(せっさい)の教えを受けているし、元服(げんぷく)のとき、義元から「元」の一字を与えられ、はじめ元信(もとのぶ)、ついで元康(もとやす)と名乗っているのである。さらに、義元の重臣関口氏純(うじずみ)の娘瀬名(せな)と結婚しており、これは一門待遇といってよい。なぜなら瀬名は、系図の上では義元の妹の子、つまり姪(めい)にあたるからである。
さらに、永禄元年(1558)には初陣も勝利で飾り、武将として好スタートをきり、長男竹千代(のちの信康/のぶやす)、長女亀姫(かめひめ)という2人の子も生まれ、岡崎城主として復帰できる日を待つだけであった。
ところが、永禄3年(1560)5月19日の桶狭間(おけはざま)の戦いで松平元康の運命は大きく変わることになる。
桶狭間の戦いについて、古くは、今川義元上洛(じょうらく)説というのが取り沙汰(ざた)されていた。足利将軍家の力が弱体化し、足利の分かれを自認する義元が足利将軍家に取って代わろうとしたというのであるが、近年の研究は、むしろ三河(みかわ)まで勢力を伸ばした義元が、さらにその勢いで尾張を奪取しようとしたものとするとらえ方が主流となっている。
このとき、遠江(とおとうみ)の井伊直盛(いいなおもり)と三河の松平元康が先陣を命じられ、三河から尾張へ攻め込んでいる。そして、元康に命じられたのが、尾張における今川方最前線支城である大高城(おおだかじょう)への兵糧(ひょうろう)入れであった。桶狭間の戦い前日5月18日のことである。元康はその使命を果たし、そのまま大高城への在城を命じられている。ここが運命の分かれ目であった。もし、5月19日、元康が義元の側にいれば、元康も信長に命を取られていたと思われる。実際、元康とともに先鋒を務めた井伊直盛は桶狭間で討ち死にしているのである。

家康の出生に触れた『東照宮御実紀』
家康から10代家治までの治績を、徳川幕府が正史として編纂。岡崎城での家康の誕生から、駿府城での永眠にまで触れている。(国立公文書館蔵)
監修・文/小和田哲男