金ヶ崎合戦、姉川の戦いで徳川家康は一体どうした⁉
徳川家康の「真実」①
織田信長の人生でももっとも危なかったという金ヶ崎の退き口。妹・お市の旦那・浅井長政の裏切りは信長を追い込んだとともに、行動をともにしていた徳川家康の身も危機に瀕した。
■なぜ徳川家康は北陸で激突した「姉川の戦い」に参戦できたのか?

壮絶な両軍の戦いで多数の戦死者が出た。合戦場となった姉川は血で赤く染まったという。
永禄13年(1570)正月、織田信長(おだのぶなが)は諸国の大名・国人らに上洛命令を発する。天皇御所の修理や将軍(足利義昭/あしかがよしあき)の御用、その他「天下静謐(てんかせいひつ)」のため、2月中旬に信長も上洛するので、各々も延引せず上洛せよとの命令であった。
この要請に応えて、家康も3月に上洛を果たす。都では将軍・足利義昭の御所の普請が成った祝いの席がもうけられ、能が演じられ、家康も他の諸侯とともに観覧した。束の間の平穏な時を経て、信長は若狭・越前の平定を目論み、出陣(4月20日)。家康もそれに従軍している。
若狭の武藤氏を降伏させ、続いて越前に攻め込んだ信長。手筒山城(てづつやまじょう)・金ヶ崎城(かながさきじょう/福井県敦賀市)を落とし、朝倉義景(あさくらよしかげ)が籠る一乗谷城(いちじょうだにじょう/福井市)に進軍しようとしたところで、驚くべき報告が入る。信長の妹・お市(いち)を嫁がせ、同盟を結んでいた北近江の浅井長政(あざいながまさ)が裏切ったというのである。退路を断たれることを恐れた信長は退却を決意する。『三河物語』には、信長は家康に何の連絡もなく、退却していったとある。夜が明けてから、家康は織田家臣・木下藤吉(きのしたとうきち/後の豊臣秀吉)に案内されて、兵を退いたという。
都に無事に帰りついた家康は、程なくして、領国に戻る。家康は6月には再び西国に出陣するのであるが、その頃までに、居城を岡崎から浜松に移している。当初、家康は古代以来、遠江の政治の中心であった見付(みつけ/静岡県磐田市)に城を築こうとしていた。しかし、同所は天竜川を越えた東の地域であり、何か事があった時(これは武田氏による攻撃を想定したものであろう)に支援が行いにくいという信長の忠告により、普請は中止。代わって、飯尾氏の居城であった引馬城(ひくまじょう)を改修して使用することにした。引馬の名称も浜松と改められ、家康は浜松城を新たな居城とする。
さて、同年6月、信長は浅井長政が籠る小谷城に迫るも、越前の朝倉方が援軍8千を派遣。信長のもとには家康自ら5千の兵を率いて、駆けつけていた。こうして、6月28日、織田・徳川と浅井・朝倉連合軍による姉川(滋賀県長浜市)の戦いが起こる。

榊原康政
姉川の戦いでは川を迂回し朝倉軍の側面から「横槍」にて攻撃。朝倉軍は敗走した。(東京国立博物館蔵 出典: Colbase)
『三河物語』には、合戦前日、信長が家康に二番隊を依頼する描写がある。しかし、家康は「一番隊を望む」として頑強に抵抗。「もう既に部隊の編成ができている。今更、それを変えるのも……何とか二番隊をお願いできないか」と懇願する信長に対し、「一番隊をお命じくださらないのであれば、合戦せずに帰ります」と突っぱねる家康。さすがの信長も根負けして、家康に一番隊を命じることになったという。合戦当日、家康軍は敵陣を破り、敵兵を殺し、奮戦した。信長軍は本陣近くまで攻め込まれたが、家康軍が健闘したことにより、勝利を収めた(『三河物語』)。信長も家康軍の奮闘に大喜びだったと言われる。
一方、『信長公記』には、家康軍の奮闘は記されていない。「さんざんに入り乱れ、黒煙をあげ、しのぎを削り、鍔を割り、ここかしこで、思い思いの活躍をした」と書かれているだけである。その後には、討ち取った敵将の名が記されている。
監修・文/濱田浩一郎