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上洛後の信長を苦しめた包囲網と足利義昭の策動

戦国武将の領土変遷史⑲

朝倉を見限った足利義昭は信長に上洛を託す 

足利義昭
信長の軍事力を得て上洛し、15代将軍に就任したものの対立。追放されて諸国を流浪しながら、各地の武将に御内書を送り蜂起を促し、しぶとく信長に抵抗した。『絵本豊臣勲功記』国文学研究資料館蔵

 

 義輝が「永禄の変」で落命したのは、上杉謙信(うえすぎけんしん)ら有力大名を上洛させることで三好氏の力を抑え、将軍権力を強化しようという動きを警戒されたことが原因だった。しかし、彼の死後、その構想は実現することになる。義輝の弟・義昭(よしあき)は変の際、奈良興福寺(こうふくじ)の一条院門跡(いちじょういんもんぜき)だった。三好党によって幽閉された義昭は、近臣らの手引きによって近江甲賀の和田惟政(わだこれまさ)のもとに脱出する。

 

 当時の近江の状況について触れると、北近江では京極氏を追い落とした浅井(あざい)氏が長政(ながまさ)を当主として南近江の六角氏と対峙している。六角氏では当主の義治(よしはる)が重臣団と対立し、その支配力を凋落させていた。

 

 義昭は六角家の実権を握る六角承禎(じょうてい/義治の父)の了解を得てその膝元の矢島に移り、三好・松永が担ぎ出した傀儡(かいらい)の14代将軍候補・義栄(よしひで/義昭の従兄弟)を認めず、自分が正統と主張。上杉謙信や北条氏政(ほうじょううじまさ)らに使者を派遣するなど、活発な政治工作を開始し、彼の野望はすぐにも実現するかと思われたのだが、承禎が三好三人衆との連衡(れんこう)を選んだことを知った義昭は船で湖を渡り、若狭へと逃れ、さらに越前の朝倉義景(あさくらよしかげ)を頼って一乗谷に移った。

 

 2年後の永禄11年4月には元服もしたが、それからわずか3カ月後の7月、彼は織田信長に迎えられて美濃へと去ってしまう。2月に義栄が将軍に就任したにも関わらず上洛を実行しようとしない義景にしびれを切らし、「すぐにも上洛を」と豪語する信長に賭けることにしたのだ。

 

 実は、信長はこの2年前、永禄9年にも義昭の呼びかけに応じて上洛を行おうとしたことがあったが、美濃の斎藤義龍(さいとうよしたつ)に妨害されて果たせず、今回はリベンジという形だった。

 

 岐阜城下の立政寺(りゅうしょうじ)に義昭を迎えた信長は、ひと月あまりで義昭を奉じ上洛戦を敢行する。六角承禎を一蹴した彼は義昭を夢にまで見た京に入らせたのである。三好三人衆と対立する松永久秀や河内高屋(たかや)城の三好義継(よしつぐ/十河一存の子で長慶の養子)も信長の上洛を歓迎し、三好党は京から駆逐された。

 

 義昭のライバル、義栄は病死し、義昭は晴れて念願の征夷大将軍職に就く。すべては信長のおかげだと感激した彼は、書状で信長を「御父」と呼ぶなど最大限の謝意を示した。

 

最大の危機だった金ヶ崎を脱した信長は姉川の戦いへ

 

 またたく間に上洛を成し遂げた信長は、実質的な天下人として活動を開始する。

 

 近江の草津・大津、和泉の堺に代官を置いて流通と商業を掌握、南伊勢までを制圧し、元亀元年(1570)には越前の朝倉義景をも攻めようとしたが、ここで突然、浅井長政が反旗を翻し、信長は挟撃されるのを避け京へ逃げ帰る羽目に陥った。「一に憂いこと」と評された金ヶ崎の退き口である。木下秀吉(きのしたひでよし/豊臣秀吉)らの殿軍(でんぐん)によって信長は虎口(ここう)を脱したが、京から美濃への通路である中山道が封鎖されている。

 

 信長は京から南近江の千草越(ちぐさごえ)を通って岐阜へ戻ろうとした。六角承禎の意を受けた銃の名手による狙撃を受けたのは、この時である。間一髪命中を逃れた信長は、六角氏が煽動する南近江の一揆を掃討し、6月28日、同盟軍の徳川家康とともに浅井・朝倉との決戦に臨む。

 

 それが、「姉川(あねがわ)の戦い」だ。織田・徳川連合軍1万3000が浅井・朝倉連合軍1万3000と小谷城南方の姉川を挟んでにらみ合い、浅井勢の突撃に押されて陣を乱したものの、徳川勢が朝倉勢の側面に兵を迂回させて反撃し敗走させると、動揺した浅井勢も退却した。浅井・朝倉軍の損害は1100名に及んだというが、10%近い消耗率はかなり高い。

 

 以降、信長は浅井・朝倉、三好党、さらに石山本願寺の一向一揆と、反信長包囲網との戦いの日々を過ごす。その裏には、信長の傀儡であることを不満とする義昭の策動があった。

 

監修・文/橋場日月

『歴史人』202210月号「戦国武将の勢力変遷マップ」より)

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