織田領国の瓦解を経て一変した「北陸」勢力図
戦国武将の領土変遷史⑯
秀吉政権の成立以後、北陸の勢力図が激変

小牧・長久手の戦いにおいて、徳川家康は廃城となっていたこの城に本陣を置き、鉄壁の城として整備。その堅固さに秀吉軍は攻略することができなかった。写真は現在の模擬天守で、内部は小牧市歴史館となっている。
天正10年(1582)6月2日に勃発した本能寺の変は、戦国時代を一変させる衝撃を与えた。
この年3月、織田信長は宿敵武田氏を滅亡させ、勝頼と同盟関係を結んで敵対していた上杉景勝(かげかつ)も追い詰めていた。越中国の平定を進める勝家軍に対し、もはや景勝は魚津(うおづ)城の救援どころではなくなり、越後に帰国して専守防衛に切り替えたが、上杉氏の命運はもはや風前の灯であった。
この時点で北陸5か国は、若狭は丹羽長秀(にわながひで)、越前は柴田勝家、加賀は佐久間盛政(さくまもりまさ)、能登は前田利家(まえだとしいえ)、越中は佐々成政(さっさなりまさ)に与えられ、若狭を除く4か国は勝家が司令官となって6月3日には魚津城を攻略し、さらに平定戦を進めている矢先、本能寺の変の急報がもたらされた。
近年、変後の勝家の動向が分かる新たな史料が発見され「中国大返し」を強行した羽柴秀吉(はしばひでよし)以上の速さで本拠地の北庄(きたのしょう)城に帰還していたことが判明している。
遠方のために情報不足もあったが畿内やその周辺の信長家臣とも連絡を取り、若狭国の動揺を抑え明智光秀(あけちみつひで)討伐に向かおうとしたが秀吉に比べて慎重に過ぎたため、弔(とむらい)合戦には間に合わなかった。
6月27日、いわゆる「清須(きよす)会議」を開き、織田家家督と欠国処分などを決定した。勝家は山崎(やまざき)の戦いには参陣しなかったが、長浜(ながはま)城を含む秀吉の旧領を獲得した。
秀吉は織田家中での主導権を狙い、丹羽長秀、池田恒興(いけだつねおき)らを抱き込み、信長次男の信雄(のぶかつ)を織田家家督に据えるクーデターを起こす。北陸の勝家が身動きできない冬場を狙い、長浜城主となっていた勝家養子の勝豊(かつとよ)を下し、さらに遺領分配で美濃国領主となっていた信長三男の信孝(のぶたか)を降伏に追い込んだ。信孝は秀吉に母と娘を人質に出したが、翌年にはこれを見捨て、勝家、滝川一益(たきがわかずます)と結んで再度蜂起した。
天正11年4月、勝家軍と秀吉軍は賤ケ岳(しずがたけ)周辺で激突する。勝家軍の佐久間盛政が秀吉方の中川清秀(なかがわきよひで)を討ち取り、高山右近(たかやまうこん)を敗走に追い込んだ。
秀吉は伊勢の一益、岐阜の信孝、北近江の勝家軍との多方面作戦を余儀なくされていたが、盛政の奇襲を知り、岐阜城攻めを中断し、北近江の戦場へ急行軍で帰陣。「賤ヶ岳の戦い」である。合戦の様相は良質な史料からは読み解けないが、秀吉馬廻(うままわり)衆の活躍もあり、勝家軍は敗退し、北庄城に敗走した。勝家は最後の酒宴を開き、わずかばかりの抵抗を見せたものの、見事な最期を飾った。
天正12年の小牧・長久手の戦いでは、越中の佐々成政は織田信雄・徳川家康(とくがわいえやす)陣営に属し、秀吉方の前田利家と能登や加賀で戦闘を交えた。しかし翌年には秀吉の越中征伐を受ける。ほとんど抵抗らしい抵抗も見せず大軍を率いる秀吉に降伏し助命された。
成政の旧領の大半は前田利長に与えられ、前田家は加賀、能登、越中を領する北陸の総督ともいうべき地位に上り詰めた。秀吉の天下取りに貢献した長秀が天正13年病死し、嫡男長重(ながしげ)が引き継いだが、若狭国へ移され、その後、北庄城主は堀(ほり)氏、小早川(こばやかわ)氏、青木(あおき)氏と目まぐるしく変遷した。若狭国内も領主が変遷し、長重の後は秀吉の相婿浅野長政(あさのながまさ)や高台院(こうだいいん)の甥の木下勝俊(きのしたかつとし)としらが入部した。
関ヶ原の戦いと大坂の陣後、徳川氏が前田氏を包囲
関ヶ原の戦いに際しては、北陸方面では、大谷吉継(おおたによしつぐ)、丹羽長重、山口宗永(やまぐちむねなが)らが西軍方となった。
東軍の北陸総督ともいえる前田利長は大聖寺(だいしょうじ)の宗永父子を討ち取ったが、浅井畷(あさいなわて)の戦いでは丹羽軍を相手に苦戦した。戦後処理では、能登の前田利政(としまさ/利長の弟)は不穏な動きをみせたことで改易され、利長が能登国と加賀国2郡を加増され、加賀・越中・能登の3か国を領有する大大名となった。
越前国は、家康の次男結城秀康(ゆうきひでやす)が越前一国を拝領、若狭国には大津(おおつ)籠城戦で活躍した京極高次(きょうごくたかつぐ)が入部し、没後は忠高(ただたか)が継ぎ、大坂の陣を迎える。
監修・文/和田裕弘