応仁の乱を契機とした加賀一向一揆の台頭
戦国武将の領土変遷史⑮
応仁の乱を契機に新興勢力が台頭

上杉謙信
祖父の代から越中に出兵。1577年閏7月には能登に出兵し、七尾城を攻略する。都立中央図書館蔵
応仁元年(1467)に勃発した応仁・文明の乱は約11年にわたって戦いが繰り返され、その余波は全国各地に飛び火した。
北陸地域も例外ではなく、否応なく下剋上(げこくじょう)の波が押し寄せてきた。もっとも、越前(えちぜん)国ではこれ以前から争乱が続いていた。守護斯波(しば)氏と守護代甲斐(かい)氏との抗争の中で、斯波氏の家老だった朝倉孝景(あさくらたかかげ/英林/えいりん)が軍事力を背景に地位を高め、応仁の乱を契機に下剋上を果たす。
応仁の乱において孝景は、当初は斯波義廉(よしかど)とともに西軍として活躍していたが、将軍足利義政(あしかがよしまさ)らから好餌(こうじ)をもって誘われ、東軍に寝返る荒業をやってのけ、東軍を優位に導いた。
軍事力に優れる孝景は、越前の実効支配を進め、斯波氏に代わって守護職(しき)に任じられた。国内での地盤固めに功績のあった守護代甲斐氏も撃退するなど、全国初の戦国大名といわれる朝倉氏5代100年の始まりである。
隣国の若狭(わかさ)国は守護一色(いっしき)氏に代わって安芸守護武田氏の分国となり、武田氏も戦国大名化したが、安芸国から移ってきたといわれる逸見(いつみ)氏、粟屋(あわや)氏ら有力家臣の台頭を抑えきれず、また守護家内での対立もあり、他国からの軍事介入を許すなど混乱状態が続いた。
加賀国では、守護富樫(とがし)氏の内紛に乗じ、国衆(くにしゅう)と結びついた一揆衆が勢いを増し、長享2年(1488)6月には守護富樫政親(まさちか)の高尾(たこう)城を攻囲し自害に追い込んだ(長享の一揆)。守護を斃(たお)したことで加賀国は「百姓の持ちたる国のようになり」とも評されたが、支配の実態は他の勢力もあり複雑であった。
能登国の守護畠山義統(はたけやまよしむね)は、応仁の乱では畠山義就(よしなり)を支持し、西軍となったが、乱の収束にともなって文明9年(1477)11月、京都の自邸を焼き払って分国(ぶんこく)である能登に下向した。
2年後には越後守護上杉房定(うえすぎふささだ)と結んで越中(えっちゅう)国の奪取を企てるなど「はなはだ威勢がある」と評された。嫡男の義元(よしもと)、その養子の義総(よしふさ)の代に最盛期を迎えたといわれる。
しかし、畠山氏もご多分に漏れず、有力家臣の遊佐(ゆさ)氏や温井(ぬくい)氏の台頭を抑えることができず、義総没後は七人衆とよばれる家臣に牛耳られ、内部抗争が激化し、弱体化していく。
越中国は管領家の畠山氏が守護だったが、守護代の神保(じんぼう)氏、椎名(しいな)氏、遊佐氏などが実質的な支配を進めた。
明応(めいおう)の政変で幽閉された足利義材(よしき)は越中放生津(ほうじょうづ)に下向し、神保長誠(ながのぶ)を頼り、「越中公方(くぼう)」と呼ばれ小幕府を樹立。しかし、義材は越前朝倉氏、さらには周防の大内(おおうち)氏を頼って流れて行った。越中国は、加賀一向一揆や越後守護代の長尾氏なども巻き込んで混沌とした状況が続くなか、神保長職(ながもと)が台頭し、混乱の様相を深めていく。